小比類巻刑事の事件簿~VSホテルマン~

 

※この物語はフィクションであり、実在の人物などとは関係ありません。

 

 

【主役のキャラクター】

  • 小比類巻 圭(こひるいまき けい)

    • 年齢:50歳/性別:男

    • 肩書:ベテラン刑事

    • 性格:冷静沈着、皮肉屋。相手をじわじわと追い詰める問答が得意。口癖は「ええ、」。

    • 特徴:独自のペースで事件に迫り、核心にたどり着く推理力を持つ。

  • 西 正広(にし まさひろ)

    • 年齢:33歳/性別:男

    • 肩書:若手刑事、小比類巻の部下

    • 性格:ドジでおっちょこちょいだが人懐っこい。感情豊かな相づち(「わっ」「ぎゃー」「やったー」)が特徴。

    • 小比類巻にいじられつつも信頼されている。

 

 

第1章:消えた記録

東京・南青山。

その一角に佇む高級ホテル〈グラン・セレーノ〉は、都心の喧騒から隔てられた静謐な空間だった。

世界的なビジネスマンや政治家、芸術家までもが滞在先に選ぶそのホテルは、洗練されたおもてなしで知られている。館内は深い静けさに包まれ、ひとたび足を踏み入れれば、現実と切り離されたような錯覚すら覚える。

だが――

その夜、その静寂が崩れた。

「……金庫が、開いてるんだよ」

その一報がフロントに入ったのは、午後10時21分。

応対したのはフロント係の藤咲萌絵

やや緊張した声を、抑えた笑みの中に潜ませながら応対した。

「恐れ入ります。藤咲でございます。どのようなご用件でしょうか?」

『……俺の金庫の中身が消えている。USBと手帳が、だ』

電話の主はスイートルームに滞在中の堂島啓介

財界では知らぬ者のない実力者。

その声は低く、怒気を含みながらも妙に震えていた。

「ご不便をおかけして申し訳ございません。ただいま、責任者を向かわせます」

萌絵は受話器を置いた瞬間、表情を一瞬だけ曇らせた。

すぐさまセキュリティ責任者へと内線を回す。

「……スイートルームからの通報です。金庫の……中身が、なくなっていると」

同僚が横から小声で尋ねた。

「堂島様……何がなくなったって?」

「USBと、手帳だそうです」

「現金やジュエリーじゃなくて?」

萌絵は頷いた。そして、心の奥で小さくざわめきが走った。

(……まさか、“あの”手帳……?)

***

約10分後、セキュリティ責任者と客室マネージャーがスイートルームに到着した。

堂島は怒りを隠さず、開け放たれた金庫の前に立っていた。

「USBと黒革の手帳。あれがなくなってる。カメラでもなんでも見ればいい!」

「お客様、金庫の暗証番号を変更されていましたか?」

「してない。いつも使ってる番号だ。盗まれるなんてありえないだろうが!」

「では、他に金庫を開ける手段をご存じの方は?」

「いない。俺しかいない。部屋にはずっと部下もいたんだぞ!」

金目の物に手はつけられていない。

高級時計も、現金も、宝飾品も手付かず。

狙いはただ、USBと手帳のみ――。

***

翌朝――。

ホテル内の一室。特別に用意された“宿泊客”用のスイートの扉が、カチリと開いた。

ゆっくりと姿を見せたのは、グレーのスーツに中折れ帽をかぶった男。

小比類巻 圭(こひるいまき・けい)

刑事でありながら、どこか探偵めいた雰囲気をまとったその男は、軽い足取りでロビーを歩く。

背後から駆け足でついてくるのは、若い刑事の西 正広。スーツにしわを寄せながら、鞄を肩にかけて追いかけてくる。

「わっ、小比類巻さん、待ってくださいってば~。すっごい……ここ、ホテルっていうより、芸術館ですよね! うわ、あのソファ高そう……」

「ええ、だいたい定価の3割増しですな。見た目が上品なぶん、値も張る。……でも、そんなことはどうでもよろしい」

小比類巻はロビーを一瞥し、端正な顔立ちの中に、ふと険しさをにじませた。

「盗まれたのは金じゃない。“記録”です。USBと手帳――それは“過去の証拠”でもある。ええ、犯人は何かを“消したかった”。けどね、西くん」

「はい?」

「何かを消すとき、人は必ず“何かを残す”んです。……それが人間ですからな」

そう言って歩みを進めたその先に、立っていたのは――

フロントに立つ、若い女性スタッフ。

昨夜、堂島の通報を最初に受けた人物。

名札には、藤咲 萌絵

一見、真面目で穏やか、丁寧な物腰。

だが、目の奥に、何かを抱えているような光が揺れていた。

萌絵もまた、ふとこちらに目を向け、小比類巻と一瞬視線が交わる。

だが次の瞬間、彼女はそっと目を逸らし、柔らかい笑顔を作って会釈した。

「……ええ、第一印象では、犯人には見えませんな」

「じゃあ、犯人じゃないってことですか?」

「ええ、とは限りません。第一印象でわかるなら、私の仕事はもっと楽です」

小比類巻は、帽子のつばを軽く押さえた。

「けれど、“ノーと言わない”というのは、時に“自分を偽る”ってことでもあるんですな。……まずは、あの方から聞いてみましょうか」

その声はあくまで穏やかに。

けれど、まるで扉の鍵を手にしているかのように、確かな響きを持っていた。

 

 

第2章:ノーを言わない女

ロビー奥の応接スペース。

柔らかい照明とガラス越しの庭の静けさが、客人の緊張をほぐすように設計された空間だった。だが今、その静けさに、小さな緊張の糸が張り詰めていた。

向かい合って座るのは、刑事・小比類巻 圭と、フロント係の藤咲 萌絵

その間には、ホテルの用意したフレーバーティーと、完璧に折られた白いナプキン。

「ええ、急なお願いにお応えいただき、感謝します。業務中とはいえ、お時間を取らせてしまってすみませんな」

「いえ。お客様に安心していただくのが、私たちの仕事ですから」

柔らかな声で答えながらも、萌絵の指先が、膝上でわずかに緊張しているのを小比類巻は見逃さなかった。

座り方、手の置き方、視線の向け方――すべてが正しい。

けれど、それは“自然”ではなかった。

小比類巻はゆっくりとメモ帳を取り出し、話し始めた。

「堂島さんがチェックインされたのは、昨日の15時40分。その際に、“特別な要望”を出されたとのことです。ご記憶に?」

「……はい、ルームサービスの時間指定と、マッサージの手配をフロント経由で」

「ええ、ですが堂島さんは“専属対応のスタッフを一人つけてほしい”とも要望されていた。あなたが対応されましたね?」

萌絵の表情が、一瞬止まる。

だが、すぐに柔らかな笑みで返す。

「申し訳ありません……その件は、私ではなく夜勤の者が……」

小比類巻は間髪入れず、返す。

「ええ、それはおかしいですね。ホテルの業務システムに残る接客ログには、15時43分にあなたが堂島様に対応した記録があります。要望もあなたの端末から入力されている。……“知りません”というのは、少し、無理がありますな」

萌絵は視線を逸らした。

西が緊張気味に横から覗き込む。

「えっ……じゃあ、ウソってことですか?」

小比類巻は軽く手を振る。

「ええ、西くん。ウソとは限りません。けれど、“真実を言わない”というのは、ウソと同じくらい意味を持つ時があるんです」

しばしの沈黙。

やがて、萌絵が小さく唇を開いた。

「……申し訳ありません。記憶違いだったかもしれません。でも、私は……堂島様と個人的な接点はありません」

「個人的な接点? まだ聞いてませんよ、そんなこと」

言葉の端に、無意識の“自己防衛”が混ざる。

小比類巻はゆっくりと立ち上がり、ティーカップを持ち上げた。

「このお茶、美味しいですね。“アールグレイ”ですかな?」

萌絵が一瞬、視線を落とし、笑顔を作った。

「はい。今日はお疲れかと思い、カフェイン控えめのものを選びました」

「ええ、……やはり、あなたは“おもてなし”に誠実な方ですね」

その言葉に、萌絵の表情が一瞬、揺れる。

小比類巻は、最後にこう続けた。

「ただね――“おもてなし”って、“ノーを言わないこと”じゃない。

“イエスの重みを知ること”でもあるんです」

そして、視線を真正面から向けた。

「堂島さんの金庫の中から、USBと手帳が消えた。それはあなたの知っている世界の話ですよ。……ええ、これからゆっくり、聞かせていただきましょうか」

萌絵は答えなかった。

だがその沈黙は、確実に“何か”を示していた。

***

応接室を後にしたあと、西がぽつりと呟く。

「……なんか、やっぱり怪しいですよね。隠してるって感じでしたし」

「ええ、そう見えましたか?」

「はい。たぶん……犯人なんじゃないですか? 藤咲さん」

小比類巻は、立ち止まり、帽子を少し傾けた。

「ええ、かもしれません。……でもね、西くん」

「はい?」

「怪しいのは、“本人”じゃない。“沈黙の理由”ですな」

そう言って、薄く笑った。

その笑みの奥に、小比類巻だけが見ていた“別の可能性”が、すでに芽吹いていた。

 

 

第3章:おもてなしの深度差

〈グラン・セレーノ〉の朝は、実に整然としていた。

ロビーの香り、照明の色温度、スタッフの歩幅までが計算されたような整合性を保ち、訪れる客に「秩序ある安心感」を与えるように設計されている。

小比類巻と西は、その一角、1階奥のラウンジで朝の打ち合わせを行っていた。

テーブルにはホテル特製の朝食セットが並ぶ。西はさっそくパンに手を伸ばす。

「うわっ、このクロワッサン、外パリッパリですよ! さすが一流ホテル! 小比類巻さん、食べないんですか?」

「ええ、私は食欲より、観察欲のほうが強くてね」

小比類巻は窓越しに見える、エントランス近くの様子を見つめていた。

「……ほら、西くん。あそこを見てごらんなさい」

西がそちらを見ると、ちょうどチェックアウトを終えた老婦人に、スタッフが荷物を手渡している場面だった。

「普通でしょ? 何かありました?」

「ええ、ごく普通。“藤咲さん”なら、あの場面で笑顔とともに“ご利用ありがとうございました”と定型句を返すでしょうな。でも、今対応しているのは――氷川誠さん」

そこに立つのは、チーフコンシェルジュ・氷川 誠

柔らかな笑顔。

両手で荷物を差し出しつつ、ほんのわずかに腰を落とす。

その目線は、老婦人の顔ではなく、彼女の手元に一瞬だけ向けられていた。

「“転倒しやすい方”かどうか、足元をさりげなく確認している。加齢により握力が落ちていれば、荷物の渡し方も変わる。ええ、これが“深度”ですな」

「……はぇ~……」

西はパンを手にしたまま、見とれていた。

「一流のホテルマンとは、対応が優しいんじゃない。“先に気づく”ことができる人です」

そのとき、ちょうど氷川がロビー奥のカウンターへと歩いてきた。

小比類巻はさっと立ち上がり、軽く会釈する。

「お時間、よろしいですか。チーフコンシェルジュさん」

氷川は一瞬で空気を読んだように、すぐに笑顔を向けた。

「はい。お客様に不便をおかけしてしまった以上、できる限りお力になります」

***

会議室。

控えめな照明と、完璧な座り心地のチェア。

小比類巻と氷川が向かい合い、西が横でメモを取る。

「堂島啓介様の金庫から、USBと手帳が消えた件。チーフとして、何か気づかれた点はございますか?」

「お客様の持ち物については、通常こちらから踏み込むことはありません。ただ、チェックインの際に“セキュリティが最も厳重な部屋を”というご要望はありました」

「なるほど。“厳重さ”に、妙にこだわっていたと」

「はい。スタッフにも、その点は何度も伝えていました」

「ちなみに、事件当夜。“トリプルルーム”の予約履歴が記録にありましたな?」

氷川は、ほとんど間髪を入れずに答えた。

「はい。実際には存在しない部屋ですが、海外からのお客様の要望で、一時的に会議室を仮設ルームとして転用した件です。私の判断で対応しました」

小比類巻は、無表情のまま頷いた。

「ええ……さすが、チーフですね。『ノー』を言わない対応。素晴らしい。……ただ、“応じすぎる”と、見落とすこともある」

「見落とす……とは?」

「“おもてなし”という名の仮面に、“真実”が潜むこともありますよ」

氷川は口元だけで薄く笑った。

「私どもにとって、“真実”とは、お客様に喜んでいただけるかどうか。それが全てです」

「……ええ、“表”では、ですな。けれど“裏”があるのが、人間ですから」

その言葉に、氷川の瞳がほんの少しだけ、揺れた――ように見えた。

だが、すぐに整えられた微笑みに戻った。

***

会議室を出た後、西がそっと尋ねた。

「……小比類巻さん、どうでした? あの氷川さん」

「ええ、完璧ですな。言葉の選び方、間の取り方、視線の動き――プロの中のプロです」

「じゃあ……怪しくないってことですか?」

「怪しくない人間ほど、怪しいことがある。……それが、この手の事件の常ですな」

小比類巻はロビーの中央で立ち止まり、再び藤咲萌絵の姿を遠目に見た。

彼女は丁寧に電話応対をしていた。

「……おもてなしという言葉は、人を守る鎧にもなる。けれど、隠す幕にもなる。――“誰が”“何を”隠してるか。ええ、そろそろ見えてきましたな」

視線の奥に、冷静な炎が宿った。

 

 

第4章:トリプルルームの存在しない夜

午後、館内のスタッフルーム。

シフト交代の合間を縫って、小比類巻は再び藤咲萌絵と個別に話す機会を得た。

彼女は制服のジャケットをきちんと整え、姿勢を崩すことなく席に座る。

その姿はまさに「正しいホテルマン」。けれど、それが逆にどこか不自然でもあった。

「ええと……堂島様の件、やはりまだ調査が必要ということでしょうか?」

「はい。事件としては一応、“金庫からの盗難”という形になりますのでね。内部の事情を伺う必要があるのは、ご理解いただけると思います」

「もちろんです。私にできることがあれば……何でもご協力します」

萌絵は、まっすぐに答える。

その目には迷いがなかったが――小比類巻は、そこに“決意”のようなものを見た。

(決意がある人間は、何かを“守っている”時ですね)

「ではひとつ。昨夜、“トリプルルーム”という部屋が、予約システムに一時的に記録されていたのをご存じですか?」

「……え?」

萌絵が小さく声を漏らす。

「“トリプルルーム”なんて、うちには存在しません。ダブルとツイン、スイートだけのはずです」

「そのとおりです。実際、館内図には記載されていない。“存在しない部屋”というわけですね。ですが、予約履歴には一時的に“利用中”と記録されていた」

「それは……いつですか?」

「昨夜の21時から23時の間です」

萌絵の手が、ジャケットの上でわずかに動いた。指先がボタンを触る。その細かな仕草を小比類巻は見逃さない。

「あなたの端末から、その予約が送信された履歴があります。IDで特定できますからね」

「……もしかして……私、間違って操作を……?」

「ええ、“間違い”というのは、“隠したい”時にも使われる言葉ですけどね」

萌絵の顔に、静かに緊張が走る。

「申し訳ありません。記憶が……はっきりしなくて……」

「それも、不自然ですね。昨日のような騒動の中で、“たまたま”操作した内容を忘れてしまう。人間の記憶って、都合がいいですね」

柔らかい口調だったが、その目には一切の揺らぎがなかった。

萌絵は視線を伏せ、指先でナプキンの端を折る。

「お客様に“ノー”を言わないのが、私のポリシーなんです。今回も……例外ではありませんでした」

「ノーを言わない。その姿勢は素晴らしいですよ。ただ、“誰に対して”ノーを言わなかったのか。それが問題ですね」

「…………」

「あなたは、誰かに“協力”したのか。“守るために”動いたのか。それとも、自分のために……?」

沈黙。

だがその中に、小さな呼吸の乱れがあった。

***

数十分後――。

小比類巻はロビーへ戻ると、ちょうどカウンターに立つ氷川誠とすれ違った。

完璧な姿勢、揺るぎない笑顔。

誰にでも同じ“完璧”を提供するその姿勢に、小比類巻はふと立ち止まって声をかけた。

「氷川さん。少しだけ、いいですか?」

「はい。何かお力になれることがあれば」

「トリプルルーム。あれは、あなたの判断で用意されたものですね?」

氷川はほんの一瞬だけ、表情を動かした。だが次の瞬間、整った笑顔に戻る。

「はい。お客様からの強いご要望があり、応接用の会議室を一時的に転用しました。場所は記録に残さない形で、との指示でした」

「その“お客様”とは……?」

「堂島様です」

「なるほど。“何も残さない応接室”か。ええ、それは便利ですね。たとえば、何か“見られて困る物”を一時的に預かるには」

氷川は微笑みながら、わずかに頭を下げた。

「ホテルは、お客様の信頼の上に成り立っています」

「ええ、だからこそ、その“信頼”がどこに使われたか……我々としては気になるわけですよ」

「……それは、当然のご判断かと思います」

言葉の応酬は、まるで磨かれたナイフのぶつかり合いのようだった。どちらも鋭いが、表面は穏やかだった。

小比類巻はその場を離れながら、心の中で呟く。

(堂島、藤咲萌絵、そして氷川誠……三人の間には、“ただならぬ力学”がある。ええ、全員が何かを隠してる。けど、その中に一人だけ、“隠すことすら美しく見える人”がいますね)

そして小比類巻の目に浮かんだのは――

藤咲萌絵の、不安定に整えられた笑顔だった。

 

 

第5章:知っているはずの人

夜のロビーは、朝とはまるで違う顔を見せる。

スポットライトが天井から静かに差し込み、空間の輪郭を浮かび上がらせる。

その陰影のなかで、人はどこか本音に近づく。

小比類巻は、昼間の聞き取りを整理しながら、控え室のソファに深く座っていた。

メモ帳には名前と矢印、簡単な時系列がびっしりと書かれている。

「ええと……堂島がチェックインしたのが15時40分。そのあとすぐに藤咲さんが応対。USBと手帳が金庫に入ったのは16時前後……」

横でカップを手にしていた西が、パタンとメモを閉じる。

「でも、小比類巻さん、堂島さんの話だと、“盗まれたのは23時ごろ”だったって……」

「ええ、そう言ってましたね。でも、実際に盗難に気づいたのはその時間だっただけで、“盗まれたタイミング”がその時間とは限らないんですよ」

「は、はぁ……でも証拠はないですよね?」

「証拠は、必ずしも“物”じゃなくていいんです。たとえば、“言葉”でも十分証拠になります」

小比類巻は、ある一文に目を落とす。

それは堂島が警備員に言った言葉の記録だった。

──「部屋には俺しか入っていない。スタッフも誰も呼んでいない」

その瞬間、小比類巻の目が細められた。

「ええ、嘘ですね。少なくとも“萌絵さん”は呼んでいます。実際に接客ログが残ってますから」

西が身を乗り出す。

「じゃあ堂島さんがウソを……?」

「ええ、ただの“記憶違い”にしては、不自然な消し方ですね。“萌絵さんだけ”をなぜ外すのか。逆に気になります」

そこに、ノックの音が響いた。

「失礼します。藤咲でございます」

部屋に入ってきたのは、制服をきちんと整えた藤咲萌絵だった。

表情は柔らかいが、目の奥には相変わらず波紋のような緊張が揺れている。

「もう一度だけ、少しお話を伺ってもよろしいですか」

小比類巻がそう促すと、萌絵は静かに頷いた。

「はい。何でもお答えします」

「では……堂島さんから、USBと手帳を金庫に入れるよう言われたのはいつですか?」

「……チェックイン後、荷物を部屋に届けたとき、そうおっしゃってました」

「それは、あなたが直接、金庫に入れましたか?」

「いえ。お渡ししただけです。お客様ご自身で金庫に……」

「ええ、そうでしょうね。では、堂島さんが“誰も呼んでいない”と言っていたことについては?」

一瞬、萌絵の眉がわずかに動いた。

「……そうおっしゃってましたか」

「はい。つまり、あなたが訪室したことを、なぜか“なかったこと”にしたいようです。ええ、不思議ですね?」

萌絵は黙ったまま、手のひらをそっと膝に重ねる。

その動きが、どこか“防御”のように見えた。

「堂島さんがあなたの来訪を否定する理由、何か思い当たることはありますか?」

「……思い当たるような、ことは……」

「それも、不自然ですね。“ある”とも“ない”とも言えない。ええ、“思い当たりすぎる”から、言葉を選んでいるように聞こえます」

萌絵の肩が小さく揺れた。

しかし、言葉はなかった。

***

面談のあと、西は控え室でカフェを片手に唸っていた。

「うーん……やっぱり藤咲さん、怪しいですよね。どんどん疑わしく見えてきました」

「ええ、表面的にはね」

小比類巻は立ち上がり、夜のロビーを見つめた。

「けどね、西くん。疑わしい人が犯人とは限らない。……逆に、“疑わせたい人間”がいる場合もあります」

「えっ……どういうことですか?」

「今回の事件、何より気になるのは……盗まれたのが“金”じゃないことです。

盗まれたのは、USBと手帳。“過去”です。“記録”です。

つまり、このホテルの中に、“記録を消したかった人”がいる。

ええ、それが誰か――少しずつ、見えてきましたね」

そして小比類巻の視線の先には、夜の帳に溶け込むように立つ――

完璧な姿勢の男、氷川誠の後ろ姿があった。

 

 

第6章:完璧なホテルマンの影

翌朝。

グラン・セレーノのロビーは、平日の慌ただしさを一切感じさせない落ち着いた空気に包まれていた。

制服に身を包んだスタッフたちが、一糸乱れぬ動きでカウンターやエントランスを支えている。

まさに「滞在者にストレスを感じさせない空間」。

だがその空気の中で、ひときわ異質な存在があった。

――氷川 誠

チーフコンシェルジュとして10年。

このホテルの“顔”であり、象徴。

彼の立ち姿そのものが、このホテルの誇りと言っても過言ではなかった。

「おはようございます。今日も素敵な1日をお迎えくださいませ」

笑顔を崩さず、少し屈んで高齢のゲストの荷物を受け取る。

手の差し出し方、声のトーン、相手の名前を呼ぶタイミング。

どれもが、教科書通り……いや、それ以上の“心の機微”に触れていた。

だが、その完璧さを見つめながら、小比類巻はポツリとつぶやいた。

「……完璧すぎる人間ほど、どこかで“人間”を隠しているもんですね」

「えっ、小比類巻さん、今なんて?」

西が思わず聞き返す。

「ええ、“完璧”は時に、嘘を塗り固めるための盾にもなるって話ですよ」

そして、小比類巻は手帳を閉じ、氷川のもとへと歩き出した。

***

コンシェルジュデスクの奥。

簡易なミーティングルームに案内された小比類巻と西は、再び氷川と対面した。

「お忙しいところ、恐縮です」

「いえ。お客様の安全が最優先です。どのようなことでもお答えいたします」

氷川の声は澄んでいた。

目の奥に一切の迷いは見えない。

けれど小比類巻は、あえて遠回りから入った。

「昨夜のトリプルルーム、やはり仮設対応だったそうですね」

「はい。海外のお客様の急なご要望でしたので、応接室を一時的に転用しました」

「その対応、素晴らしいですね。“存在しない部屋”を“あるように扱う”なんて、普通はとてもできませんよ」

「……ありがとうございます。ただ、あくまでホテルの柔軟性の範囲内かと」

「ええ。ただ、“その柔軟性”が、何か別のことにも応用されていたとしたら?」

氷川の笑顔が一瞬だけ、わずかに緩んだ。

しかし、それはごくわずかで、すぐに元通りになる。

「……どういう意味でしょうか?」

「その部屋に、何かを“保管”した方はいませんか? たとえば堂島さんとか」

「私は、そこまで把握しておりません。鍵の管理はお客様ご自身にお任せしておりますので」

「では、お伺いします。“保管されたものが、消えた”としたら?」

氷川はゆっくりと呼吸を整えるように言った。

「……それは、私どもにとっても一大事です。ただ、何かを失くされた際、お客様がご自身で処理されるケースも多々ございます」

「たとえば、警察に届けずに?」

「ええ。“世間に知られたくない記録”というものも、存在しますので」

小比類巻はゆっくりと背もたれに寄りかかりながら、視線を鋭く向けた。

「堂島さんが盗まれたのは、金じゃない。“記録”ですよ。“記録”を失くして焦るということは……それが外に出たら、困るからでしょうね?」

「……そうかもしれません」

「その“記録”を、一時的に安全に“隠しておく場所”が必要だったとしたら?」

「……それが“トリプルルーム”だった、ということですか?」

「可能性のひとつとして、ね」

氷川の顔には、変わらず笑みがあった。

けれどその手元、カップを持つ指先がほんのわずかに震えたのを、小比類巻は見逃さなかった。

「ええ……やはり、“おもてなし”は誠実な盾にもなるし、“沈黙”にもなり得る。あなたは後者を選んだようですね」

しばしの静寂。

やがて、氷川が低く答えた。

「……私は、ただ、お客様に最善を尽くしただけです」

「そうですね。“誰”にとっての最善か、それが問題なんですよ」

そして、小比類巻は帽子を被り直した。

「氷川さん。あなたの“最善”の中に、ひとつだけ……“不自然に静かな想い”がある。それについて、近いうちにもう一度、お話を伺いますからね」

氷川は、静かに頷いた。

その目は微笑みながらも、深い井戸のように底が見えなかった。

 

 

第7章:朝倉

グラン・セレーノの資料保管室には、今も紙媒体で残されたファイルが数多く保存されている。

古い記録はパソコンでは検索できず、ホテル創業時からの人事記録やシフト表、報告書などが大きなキャビネットに分類されている。

小比類巻と西は、堂島に関する過去のクレーム記録から、ある名前を見つけていた。

「……“朝倉悠人”」

「ええ。5年前、堂島が“接待中に不快な対応を受けた”と記していたスタッフの名前ですね。

当時、堂島は『こっちは金を払ってるのに、偉そうな態度をとる若造がいた』と激怒したとあります」

西が手にしていたファイルのページをめくる。

「……勤務記録、ありました。朝倉悠人さん。客室係で、3年勤務。退職理由は“体調不良”……」

「ええ、退職は堂島とのトラブルの直後です。“体調不良”はおそらく建前でしょうね。

このパターン、追い出された形の可能性が高いです」

「うわ……可哀想に……。でも、氷川さんと何か関係あるんですか?」

「それを、今から調べるんですよ」

小比類巻は、職員ロッカー使用記録、備品貸与台帳など、直接的な情報に乏しい“生活の痕跡”を追い始めた。

「ん……これは?」

小比類巻の手が止まったのは、宿泊施設従業員の健康診断提出資料の束だった。

その中に、朝倉悠人が提出した問診票の写しがある。

「……“既往歴:兄のうつ病治療歴あり”。提出者署名、朝倉悠人……」

西がのぞきこむ。

「え、兄の……?」

「ええ。自分ではなく、兄の既往歴。通常なら書かないところです。

しかも、“兄”がうつ病の治療中だったとすれば、逆もあり得る。弟が兄のために身を引いた可能性もある」

「つまり……この朝倉さん、弟……?」

「その可能性が高いですね」

さらに数分後、西があるカードファイルを見つけた。

「小比類巻さん! これ見てください。“緊急連絡先台帳”……ありました。“朝倉悠人”の連絡先、“氷川誠”です。“続柄:兄”って書いてあります!」

小比類巻は静かにうなずいた。

「……ええ、決まりですね。“朝倉悠人”は、氷川誠さんの弟だった」

西が顔をしかめる。

「うそ……でも、どうしてそんなこと、隠してたんですか?」

「ええ。隠す理由は明確ですよ。“守りたかった”んです、弟を。

堂島に潰された弟の存在を表に出せば、マスコミや内部の責任論が彼を蝕んだかもしれない。

それに、“あのホテルマンの弟がトラブルを起こした”と知れれば、誠さん自身の立場も危うくなる」

「でも、それって……藤咲さんも知ってたんですか?」

「ええ。おそらくは。“彼女も守られていた側”ですから」

「じゃあ……」

「ええ、USBと手帳に記されていたのは、堂島の過去の記録。そこには、朝倉悠人のことも、藤咲萌絵のことも、詳細に書かれていた。

彼がそれを消したのは、復讐じゃない。――“過去を静かに葬るため”です」

小比類巻は目を細め、手帳の表紙をゆっくりと閉じた。

「完璧なホテルマンであるという仮面の下に、

誰よりも優しい兄の顔を隠していた。……ええ、そういう男だったんでしょうね」

「じゃあ……やっぱり、犯人は……」

「まだ“確定”ではありませんよ。

でも、今夜――もう一度、氷川さんに話を聞いてみましょう。

今度こそ、沈黙の理由を聞く必要がありそうですね」

ロビーから遠く響くピアノの音が、静かな余韻を残していた。

それはまるで、誰かの“過去”に蓋をしようとするような、

それでも蓋がきちんと閉まりきらない、そんな旋律だった。

 

 

第8章:沈黙の代償

〈グラン・セレーノ〉のスタッフ休憩室。

深夜0時近く。

宿直シフトの合間に設けられた短い休憩時間。部屋の隅で、藤咲萌絵は、コーヒーのカップを両手で包み込むように持っていた。

その目は、カップの中の暗い液面をじっと見つめている。

その表情から、感情を読み取るのは難しかった。

ただ――静かだった。とても、静かだった。

そこに、静かに扉を開いて入ってきたのが、小比類巻 圭だった。

「すみません、夜分に」

萌絵ははっとして立ち上がろうとしたが、小比類巻は手を上げてそれを制した。

「ええ、そんなにかしこまらないでください。ただ、少し……話を聞かせていただきたくて」

彼女はゆっくりと頷いた。

「……はい。私でよければ」

小比類巻は対面に腰を下ろすと、テーブルの上にそっと一冊の資料を置いた。

「“朝倉 悠人”という名前、ご存じですね?」

萌絵の手がわずかに止まる。

コーヒーの揺れが波紋をつくった。

「……ええ。知っています」

「彼は、あなたがホテルを辞める前、同じ部署にいた方ですね」

「……はい。客室係で、私より少し先輩でした」

「そして、“堂島さんからの圧力”が原因で退職された方でもあります」

萌絵は静かに目を伏せた。

長いまつ毛が影を落とす。

「……堂島様に、お酒を強要されたんです。深夜、他のスタッフには見せないような態度で……。断れば客の信用を損ねると、言われました」

「彼は、断った?」

「はい。はっきりと。“私はホテルマンですから”って言って……」

小比類巻は、そっと息を吐いた。

「ええ、立派な言葉ですね。けれど、その“正しさ”が彼を追い詰めた」

「……あの日から、彼は笑わなくなりました。

次第に出勤が遅れるようになって、体調を崩して、上司からの風当たりも強くなって……気がついたら、彼は辞めていました」

「あなたが辞めたのも、その直後ですね」

「はい……自分が、何もできなかったのが悔しくて」

声は震えていなかったが、その言葉には、確かな痛みが込められていた。

「彼は、氷川誠さんの……弟だったんですね」

小比類巻の言葉に、萌絵は一瞬だけ顔を上げた。

驚きはなかった。ただ、その目の奥に、堪え切れない感情が溢れていた。

「……知ってました。彼が“朝倉”ではなく“氷川”だということも」

「なぜ黙っていたんですか?」

萌絵は、コーヒーのカップをそっとテーブルに戻し、小さな声で言った。

「彼が、“兄に迷惑はかけたくない”って……言っていたんです。

氷川さんは、仕事では厳しいけれど、弟のこととなると……本当に、優しくて。

……私も、“黙っていたほうが彼のためになる”って、信じてました」

小比類巻は頷きながら、言葉を慎重に選ぶ。

「……けれど、その“沈黙”が、今度は別の誰かを傷つけてしまう可能性がある」

「……わかってます」

「堂島さんの金庫から盗まれたUSBと手帳には、あなたの名前も、悠人さんのことも記録されていました。

氷川さんは、あなたを守るために、それを消した。……それが、今回の事件の真相でしょう」

萌絵はその言葉に、深くうなずいた。

「……彼は、ずっと、“ノー”を言えない人でした。

お客様にも、同僚にも、家族にも。

でも、今回――たった一度、“ノー”を言ったんです。

私が“再び壊されないように”って」

小比類巻の目が優しく細まった。

「……それが、“罪”であることは変わりません。

でも、罪を背負う理由が“人を守ること”だったなら、私はその背中に敬意を払いたいですね」

萌絵はそっと唇を噛みしめながら、肩を落とした。

「……もう、逃げたくないんです。

だから、ちゃんと話します。

氷川さんが、どんな顔で私に『逃げるな』って言ったのか、あの日のこと、全部」

その言葉に、小比類巻はゆっくりと頷いた。

「ええ、聞かせてください。そのすべてが、きっと事件の答えになりますから」

夜のホテルに、わずかな風が通り抜けた。

それは、ずっと閉ざされていた心の扉が、ようやくわずかに開いた瞬間だった。

 

 

第9章:ノーと言えなかった人

翌日の昼下がり。

グラン・セレーノのロビーは、いつもと変わらず静謐だった。

華やかさと気品を兼ね備えた空間の中で、客の足取りはゆるやかに、スタッフの動きは無駄がなく。

まるで、何も起きていないかのように、すべてが整っていた。

だがその中で、小比類巻だけは――違和感を手放していなかった。

ソファに座り、手帳のページを指でなぞる。

そこには、事件に関わる5人の名前と、それぞれの行動記録。

そして、小さく記されたひとつの言葉。

「ノーと言わなかった人」

それが、今回の犯人の本質だと、小比類巻は確信していた。

彼は、立ち上がった。

向かう先は、地下1階――スタッフ用の応接室。

すでに、チーフコンシェルジュ・氷川誠はそこにいた。

姿勢は正しく、制服に乱れはない。

完璧な立ち居振る舞い。だが、その眼差しは、昨日までとは違っていた。

「また、お越しくださったんですね」

「ええ、どうしても、確認したいことがありましてね」

小比類巻は、向かいの椅子に腰を下ろす。

帽子を膝の上に置き、まっすぐに氷川を見た。

「“朝倉悠人”という名前、ご存じですね?」

その瞬間、空気がわずかに揺れた。

それは視線か、呼吸か、それとも感情そのものか。

だが、確かに“何か”が動いた。

「……ええ。もちろんです」

「彼は、あなたの弟でしたね」

氷川は目を伏せなかった。

そして、ゆっくりと、頷いた。

「はい。……私の、弟です」

「彼は堂島さんとの間にトラブルがあり、退職された。

そして藤咲萌絵さんも、同じ時期にホテルを辞めた。

彼女と悠人さんは、親しかった。……あなたは、ふたりを守ろうとした。

その結果、“過去の記録”が再び世に出ようとしたとき、USBと手帳を消した。

――そうですね?」

沈黙が数秒続いたのち、氷川は静かに語り始めた。

「……堂島様の手元に、“記録”が戻ってきたとき、私は気づいたんです。

あの中に、弟の名前が、萌絵さんの過去が、こと細かに記録されていたこと。

“接待中に断った”、“笑顔を見せなかった”、“空気を読まなかった”――それを“問題行動”として、彼は記録していたんです」

「ええ、堂島さんにとっては、“支配できない人間”こそが、脅威だったんでしょうね」

氷川は、目を細めて言った。

「弟は、誠実すぎた。

萌絵さんは、弱さを隠すために強くあろうとした。

そして私は、“ノーを言わなかった”」

「ええ、ずっと言わなかったんですね。“おかしい”とも、“それはやりすぎだ”とも」

「ホテルマンとしての理想像を壊したくなかった。

でも、それが“本当に守るべきもの”を壊していたんです。

……ようやく気づいたんです。

だから、私は……ノーと言いました。

弟を、萌絵さんを、再び“晒し者”にしないために。

堂島様の金庫にあったものを、先に消しました。

それだけです」

声は静かだった。

言い訳でも、反省でもない。

ただ、自分の取った行動の意味を、淡々と語った。

小比類巻は、長く黙っていた。

やがて、少しだけ目を細めた。

「……氷川さん。

あなたの行動は、“誰かを守るため”だった。

ええ、それはよくわかります。

でも、やはり“罪”であることに変わりはない。

あなたが背負った優しさは、“正しさ”とは別物ですからね」

氷川は深く、長く息を吐いた。

「わかっています。

ですから、私は……これから、警察へ行きます。

きちんと、自分の手で」

「……そうですか。

ならば、私はそれ以上、追うことはありません。

ええ、それがあなたの選んだ“ノー”なら」

氷川はゆっくりと立ち上がり、小さく礼をした。

「ありがとうございました。

たった一度だけ、“ノー”を言ったことで、ようやく……兄としての自分に、なれた気がします」

***

応接室を出たあと、西が待っていた。

「小比類巻さん……終わったんですか?」

「ええ。これでようやく、一つの“沈黙”が終わりましたね」

「……氷川さん、罪にはなるけど、悪い人じゃなかったですよね」

「ええ。だからこそ、自分で終わらせに行くんでしょうね。

“守る”ということの重さを、ちゃんとわかっていた人ですから」

ロビーに戻ると、スタッフたちが笑顔で接客を続けていた。

その中に、藤咲萌絵の姿もあった。

彼女の笑顔は以前より、ほんの少しだけ、自然だった。

 

 

第10章:おもてなしの、その先に

季節はゆっくりと巡り、秋の風が街にやわらかく吹き込む頃。

グラン・セレーノのロビーには、変わらぬ静けさと、どこか穏やかな温度が漂っていた。

この場所は何も変わらないようでいて、確実に何かが変わっていた。

藤咲萌絵は、いつもの制服を身にまといながらも、その立ち姿に以前とは違う“自信”をまとっていた。

事件が終わってから数ヶ月。

氷川誠が静かに去ったあの日から、萌絵は一度も彼の名を口にしていなかった。

それでも、その背中を忘れたことはなかった。

***

この日、ホテルには再び“ある人物”が訪れていた。

――堂島啓介。

以前と変わらぬスーツ姿。

だが、その足取りには、どこか疲れが滲んでいた。

「……また、ここに来るとは思ってなかったよ」

チェックインカウンターで、彼の対応にあたったのは、偶然にも萌絵だった。

「ようこそ、お帰りなさいませ」

言葉に含みはなかった。

丁寧で、しかし過剰でもない。

かつてのように怯える色も、気遣いの裏に沈む恐れも、なかった。

堂島は目を細めて彼女を見つめた。

「前に会った時と、何か……違うな」

「そうでしょうか?」

「いや。きっと、俺のほうが変わったのかもしれないな」

堂島はふっと笑い、それ以上何も言わず、鍵を受け取って部屋へと消えていった。

萌絵は、その背中を見送るだけだった。

***

その夜。

控室では、新人スタッフ向けの簡単な研修が行われていた。

進行役を任されたのは、萌絵だった。

「皆さん、“おもてなし”って、何だと思いますか?」

誰かが答える。

「お客様の要望に応えること……ですか?」

「そうですね。でも、私は最近、こう思うんです。

“おもてなし”は、“お客様と同じ目線に立つこと”なんだと。

時には、ノーを言わなければいけない。

でも、それは拒絶じゃなくて、相手を思うからこその選択。

“その先にあるもの”まで見通すのが、私たちの仕事だと思っています」

若いスタッフたちの目が、真剣に彼女を見つめていた。

萌絵は、かつての自分がこの場にいたことを思い出す。

「何も言えず、ただ笑うことしかできなかった自分」。

それが、もう過去になったと、はっきりわかっていた。

***

数日後。

氷川誠――いや、本名・氷川悠人から、萌絵宛に一通の手紙が届いた。


萌絵さんへ

あなたが今、どんな顔でホテルに立っているのか、

この手紙を書きながら想像しています。

私は今、小さな観光専門学校で、ホスピタリティを教えています。

“完璧なおもてなし”ではなく、“人の心を守るおもてなし”を。

あの日、自分の罪と向き合ってから、ようやく理解できたことがあります。

人を守るには、時に“ノー”を言う強さが必要だということ。

そしてその“ノー”を、あなたが今、誰かのために使っているなら――

それが、私のしてきたことの答えだと思っています。

ありがとう。

そして、どうか迷わずに。

氷川 悠人


萌絵は手紙をそっと胸に当て、目を閉じた。

過去はもう変えられない。

けれど、その“過去に込められた想い”を、未来へ運ぶことはできる。

彼女の中で、ようやくすべてが“静かに繋がった”のだった。

***

ホテルのロビーを通り過ぎる、ひとりの刑事の姿があった。

帽子を軽く押さえながら、小比類巻圭は立ち止まり、窓越しに見える萌絵の姿を静かに見つめていた。

隣にいた西が言った。

「小比類巻さん……事件は終わったのに、なんでまた来たんですか?」

「ええ、“終わった”ことの意味を見届けたくてね。

私たちが何かを解決したその先に、人がどう立ち直るのか――それを見るのも、私の仕事でしょう」

「……かっこいいですね。なんか」

「ええ、まぁ。見た目だけはね」

ふたりの笑い声が、ホテルの外へとやわらかく消えていった。

ロビーの奥では、萌絵が、新人スタッフの胸元の名札をそっと直していた。

「名前は、お客様が最初に読む“手紙”みたいなものよ。だから、まっすぐ見えるようにね」

“守られる側”だった彼女は、今、自分の手で未来を整えている。

小比類巻は帽子を深くかぶり、そっとつぶやいた。

「ええ……あなたは、もう大丈夫ですね」

ホテルの扉が、静かに閉じた。

それは、過去に別れを告げ、未来へ踏み出す音だった。

──完──

 

 

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