主な登場人物
◆早川 尚人(はやかわ なおと)
性別/年齢:男性/28歳(現代)→12歳(過去)
現在の姿:都内の出版社勤務。自身の感情を閉じ込め、夢も情熱も忘れて生きている
物語の軸:突然過去に戻り、真白の失踪を止めようと奔走する
◆水野 真白(みずの ましろ)
性別/年齢:女性/28歳(現在は消息不明)→12歳(過去)
背景:失踪事件の被害者。当時から不可解な行動を見せていたが、周囲は気づけなかった
◆岸本 彩(きしもと あや)
性別/年齢:女性/12歳
性格:クールで論理的。推理小説好きで観察力に長ける
◆矢崎 隼人(やざき はやと)
性別/年齢:男性/12歳
性格:明るく快活なムードメーカー。細かいことは気にしないが情に厚い
◆松永 卓(まつなが たく)
性別/年齢:男性/38歳
役割:担任教師。
◆黒崎 芽衣(くろさき めい)
性別/年齢:女性/33歳
役割:町の公民館スタッフ。
止まった春
四月、東京の空は気まぐれだった。
午前中の柔らかな陽射しが嘘のように、夕方には冷たい雨が歩道を濡らしていた。
出版社に勤める**早川尚人(28歳)**は、濡れた髪をタオルで拭きながら、古びた編集室に戻ってきた。
分厚いゲラの束がデスクに積まれている。新人作家の原稿、レイアウト修正依頼、締め切りの催促――
「今日も地味な仕事だな……」
誰に聞かせるでもなく、尚人は苦笑いを漏らした。
夢だった作家の道を諦め、今は“他人の物語”を形にすることに専念している。
それが正解だったのか、自分ではもう分からなかった。
タブレットでニュースアプリを開いたとき、ひとつの見出しが目に飛び込んだ。
【特集】13年前の少女失踪事件――未解決のまま風化する“春の謎”
息が詰まった。
一瞬、胸の奥にしまい込んでいた記憶が蘇る。
(……また、春が来るんだな)
13年前、12歳の春。
故郷の地方都市で、クラスメイトの水野真白が突如として姿を消した。
遺体は見つからず、目撃情報も少なかった。あまりに唐突な「失踪」だった。
周囲の大人たちは、転校や家庭の事情を匂わせていたが、子どもだった尚人は知っていた。
あれは、何かがおかしかった。
けれど、自分には何もできなかった。
ただ見ているだけだった。
真白が「何かを抱えていた」ことにも気づいていたのに、怖くて踏み込めなかった。
ふと、指が震えていたことに気づく。
(……もう13年も経ったのか。俺は……)
静まり返った編集部の中、尚人はひとり、机に突っ伏した。
雨音が遠くに聞こえる。
どこかで雷が鳴った気がした。
そして――
その瞬間、世界が反転した。
◆
ふと目を開けると、どこかで見覚えのある天井が視界に広がっていた。
石綿の混じった白い天井板、木枠の蛍光灯。窓の外には、淡い桜が風に揺れている。
「……え?」
体を起こすと、前方には黒板。左右には並ぶ机と椅子。
ここは――小学校の教室。
いや、それだけではなかった。
自分の手を見下ろす。小さい。指も腕も、子どものそれだった。
(……俺は、戻ってきた?)
騒然とする頭の中に、ひとつの声が割って入った。
「尚人くん、机に寝ちゃってたよ? 風邪?」
その声――忘れようもなかった。
「……真白?」
声の主は、12歳の水野真白だった。
記憶の中の彼女と、まったく同じ笑顔。
その頬に陽射しが差し、まるで夢の中の幻のように淡く光っていた。
「え、なに? どうしたの、そんな顔して」
真白は少しだけ困ったように笑っていた。
尚人は返す言葉が見つからず、ただじっと彼女を見つめていた。
“今、俺は13年前に戻ってきたんだ――”
◆
放課後のチャイムが鳴り響くと、教室は一気ににぎやかになった。
「なーおーとー! 体育のとき超ダサかったな、お前!」
後ろからドンと背中を叩かれた。
振り返ると、そこには当時の親友――矢崎隼人がいた。
変わらない笑顔、無遠慮な言葉。それがどこか懐かしく、尚人は思わず笑ってしまった。
「は? 笑ってんのか? おお?」
「いや、なんか……夢みたいで」
「なに言ってんだよお前、脳ミソに桜でも詰まってんじゃねえの?」
他愛もないやりとりだったが、尚人の胸にはぽっかりと穴が開いたようだった。
こんな日々が、あの時――突然、壊れた。
帰り道、真白はひとりで公民館に向かっていった。
尚人はそれを遠くから見送っていた。
(たしかに、あの頃の真白は放課後、公民館によく行っていた。けれど、何をしていたかは誰も知らなかった)
あの場所こそ、真白が失踪前に最後に確認された“鍵”となる場所だった。
「……今度こそ、見て見ぬふりはしない」
小さな体で、尚人は強く拳を握りしめた。
◆
夜、自宅の布団の中。
カーテンの隙間から、風が優しく入り込んでいた。
(これが現実なら、俺には使命がある。もう一度やり直すために戻ってきたんだ)
救いたかったあの笑顔を、今なら――
その瞬間、記憶の底から、真白の最後の言葉が浮かび上がってきた。
「……わたしを、探さないで」
(なぜ、あのとき、そんな言葉を?)
混乱と恐怖と愛しさが交差する中で、尚人は小さく声に出した。
「ごめん……でも、俺は君を探す。今度は、君のために生きる」
夜の闇の中で、その決意だけが静かに燃えていた。
翌朝、尚人は久しぶりに見るランドセルの感触に戸惑いながら、通い慣れたはずの通学路を歩いていた。
正確には、“通い慣れていたはずの景色”だ。
道の両側には、春を謳うかのように桜が満開に咲いている。
咲き乱れる花の下で、通り過ぎる大人たちはどこか穏やかで、優しかった。
(こんなにも優しい春の中で、あんな出来事が起こったなんて……)
改めて思うと、やはり信じられなかった。
あの春、あの季節。
心躍るはずの毎日が、ある日を境に“空白”に変わった。
真白が消えた日から、尚人の記憶も、感情も、どこか凍りついていたのだ。
「おはよう、早川くん」
唐突に背後から声がして、尚人はびくりと肩を震わせた。
振り返ると、そこにはやわらかな光をまとった少女――水野真白が立っていた。
薄ピンクのカーディガンに、首元には白いリボン。
その笑顔は、13年という月日を一瞬で消し飛ばすほどに、あの頃のままだった。
「お、おはよう……」
思わず目をそらしてしまう。
もう一度会えたはずなのに、言葉が続かなかった。
「びっくりした? ごめん、ちょっと後ろから近づいちゃった」
「……ううん、そんなことない」
ただ、どう言葉を交わせばいいかが分からなかった。
彼女がこのあとに“失踪する”という未来を知っているからこそ、尚人は言葉を選ぶことすら恐れていた。
「今日もいい天気だね。早川くんって、朝は得意だったっけ?」
「……得意じゃないよ。たぶん、今日だけは例外」
「ふふ、そうなんだ」
くすっと笑う真白の声が、風に溶けていく。
尚人は、その笑顔を胸に刻むように見つめた。
失われた記憶の中で、ずっと見たかった光景が、今こうして目の前にある。
(この笑顔を、絶対に守らなきゃいけない)
それが今の自分の使命。
この世界に戻ってきた意味――ただひとつの理由だった。
◆
午前の授業は、正直ほとんど頭に入ってこなかった。
国語の時間、先生の声はどこか遠くで鳴っているラジオのようで、尚人の意識は常に“彼女”に向かっていた。
斜め前の席に座る真白は、教科書をきちんと開き、静かにノートを取っている。
時折、前髪を耳にかけるそのしぐさまで、尚人の記憶とまったく同じだった。
その姿を見ていると、不意に込み上げてくるものがあった。
“どうして、誰も気づかなかったんだろう”という後悔。
あの時の自分も、今の自分も、彼女の変化を「気のせい」で片付けてしまっていたのだ。
教室の窓の外では、桜の花びらが静かに風に舞っていた。
その一枚一枚が、過去から届いたメッセージのように、尚人の胸を打った。
◆
昼休み。
尚人は、いつもどおりの流れに身を任せるように、校庭の隅でパンを食べていた。
そこに現れたのは――彼女だった。
「早川くん、一緒に食べてもいい?」
「あ、うん。もちろん」
真白は、にこっと笑って隣に腰を下ろした。
彼女の手には手作りのおにぎり。鮭と昆布が一つずつ、丁寧にラップに包まれている。
「お母さんが作ってくれたの。いつもは自分で握るんだけど、今日は寝坊しちゃって」
「真白でも寝坊するんだ」
「するよ〜。それに、最近なんだか眠れなくて」
ふいに、彼女の声のトーンが少しだけ落ちた。
「……夜、誰かに見られてる気がするの」
「え……?」
「ううん、たぶん気のせいなんだけどね。変な夢を見るの。後ろに誰か立ってるような……。でも起きると誰もいないの」
尚人は、おにぎりを持ったまま手を止めていた。
(やっぱり……この時期から、もう真白は“何か”を感じていた)
「……怖くない?」
静かに問うと、真白は少し首をかしげた。
「……少しだけ。でも、誰かに話すと本当に現れそうな気がして」
「それでも……話してくれて、ありがとう」
尚人がそう言うと、真白は驚いたように目を見開いた。
「えっ……そんなふうに言ってくれるなんて、思わなかった」
「俺……本当は、真白のこと、すごく気にしてたんだ。前から」
言ってしまってから、尚人は顔が熱くなるのを感じた。
けれど、それが嘘じゃないことも分かっていた。
「そっか……ありがとう」
真白は、ゆっくりと微笑んだ。
その笑顔は、どこか安心したような、ほっとしたような、そんなやさしい表情だった。
そして、彼女は言った。
「私もね、早川くんには話してもいいかなって……思ってたの。前から、なんとなく」
(前から……?)
「たとえば、ね。誰にも言えないことがあったとしても、早川くんなら、きっと笑ったりしないと思ったの」
それはまるで、“心の奥の鍵”を、少しだけ開いて見せてくれたような言葉だった。
尚人は、それにどう返すべきか分からなかった。
ただ、小さくうなずくことしかできなかった。
◆
放課後。
真白はひとり、公民館のほうへ歩いて行った。
尚人は距離を置いてついていこうとしたが、ふいに後ろから声をかけられた。
「……なに、尾行でもしてるの?」
振り返ると、知的な眼差しを向ける少女――岸本彩が立っていた。
「見えてた?」
「バレバレ。さっきから公民館の柱の影から顔出してたじゃん」
尚人は頬をかいて、照れたように笑った。
「岸本さん……あの、公民館って、よく行くの?」
「ううん、行かないけど……真白ちゃんは最近、よく行ってるって噂は聞いたよ」
「やっぱり……」
「ねえ、早川くん。変だよね。あんなに明るい子だったのに、最近ちょっと暗い顔してる時があって」
「そう、思う?」
「うん。でも、私、あの子が無理して笑ってるの、気づいちゃった」
風が吹き、街の遠くでチャイムが鳴った。
岸本彩は、尚人をじっと見つめながら言った。
「ねえ、早川くん。あなた、何か知ってるよね? いま、“未来の目”してる」
その一言が、尚人の心を鋭く突いた。
(この子は……勘が鋭い)
「……少し、だけ」
尚人は、彼女の目から逃げずに、うなずいた。
岸本彩は、何も言わず、ただ一つ、言葉を残した。
「私、探偵ごっこ好きなんだ。手伝ってあげてもいいよ。君が隠してること、これから暴くつもりだったし」
そして、にっと笑った。
数日が経った。
春の日差しは穏やかで、教室には子どもたちの無邪気な声が響いている。
けれど尚人の中には、時間が止まったままだった。
「真白が、誰かを怖がってる」
それは確かな実感だった。
彼女は、日常を装っていた。笑っていた。ふざけて、友達と話して、先生に褒められていた。
けれどそのすべてが、何かを隠すための“仮面”のように見えて仕方がなかった。
彼女の失踪は偶然じゃない。
必ず、理由がある。誰かが彼女を――いや、“彼女の何か”を消そうとしていた。
尚人は決めていた。
もう迷わない。
今度こそ、彼女に寄り添い、真実にたどり着いてみせる。
昼休み、尚人は教室の後方にある“古い本棚”に向かった。
そこには、いわゆる“しんゆうノート”が保管されている。
仲の良い子どもたち同士で回して書く、他愛のないメッセージ帳――
(確か……事件の少し前、真白が何かを書いてたって、誰かが言ってた)
ノートはクラス全員が使えるが、回収されるとロッカーの下の棚に雑に積まれる。
尚人は、一冊一冊手に取って、表紙を確認していく。
“たのしい6年3組”
“ミラクル☆日記”
“わたしのともだち”
どれも、幼さと無邪気さのにじむノートばかりだった。
けれど――その中の一冊に、尚人の指が止まった。
表紙に水色のペンで「ましろ」と書かれたノート。
ふちが少し破れていて、ページの隙間から、何かがちぎられている痕が見えた。
(これだ……)
尚人は誰にも見られないよう、ノートを抱えて図書室へと向かった。
図書室の片隅。
木の机にひとりで腰かけ、ノートを開いた。
ページをめくるごとに、子どもたちの文字が並んでいた。
「今日の給食おいしかったね!」
「明日の遠足、晴れるといいね!」
「ましろちゃん、字がきれいでうらやましい!」
それはごく普通の、小学生たちの世界だった。
だが、あるページを開いた瞬間、尚人の目は凍りついた。
そのページには、こう書かれていた。
「みんなは何も知らない。
だけど私は、見てしまった。
……本当は、誰かに言いたい。
でも言ったら消される気がする。
ねえ、誰か、助けて――
ましろ」
書かれていた文字は、震えていた。
消え入りそうな、けれど必死に訴えかける文字だった。
(……やっぱり、真白は“何か”を知っていた)
ノートのそのページだけ、紙が柔らかくなっていた。
何度も誰かが触れた痕跡。もしかしたら、誰かが破り取ろうとしたが、途中でやめたのかもしれない。
さらにページをめくると、その先は2ページ分が破られていた。
まるで“何か重要なこと”が書かれていたのを、誰かが隠そうとしたかのように。
(これは、事件の証拠かもしれない……)
その瞬間、背後から声がした。
「……それ、見つけちゃったんだね」
驚いて振り返ると、そこにいたのは岸本彩だった。
本を抱えたまま、じっと尚人を見つめていた。
「ずっと気になってたの。そのノート、誰かが故意にしまい込んでた気がしてた」
「岸本さん、君……」
「“彩”でいいよ」
そう言って、彼女は尚人の隣に腰を下ろした。
「早川くん、本当に記憶があるんだね。大人のときの。目の動きが、子どものそれじゃないもの」
尚人は観念したように頷いた。
「……13年後の今、俺は真白の事件を特集番組で見た。その瞬間、気づいたらこっちにいた」
「タイムリープか。まあ、あり得ない話じゃない。私はそういうSFものも読むから、受け入れるのは早い方だよ」
彼女はさらりと言ったあと、真白のノートを見つめた。
「でも、これを読むと鳥肌が立つよね。私、ずっと思ってたの。真白ちゃん、誰かに“言いたくても言えない”ことがあったって」
尚人は、ノートをそっと閉じた。
「俺、真白を救いたい。そのために、何でもする。あの時できなかったことを、今度こそ――」
「なら、手伝うよ」
岸本彩はまっすぐに言った。
「私は探偵ごっこが好きなの。真実を明かすのが好き。でも今回は遊びじゃない。本気でやる」
「ありがとう」
「ひとつだけ教えて。真白ちゃんが失踪するのは、いつ?」
尚人は、はっきりと答えた。
「4月12日。あと一週間しかない」
その言葉に、彩の表情がわずかに強ばった。
「じゃあ、時間がないね。まずは“誰がこのページを破ったのか”から探らなきゃ」
その瞬間、図書室の入り口から足音が聞こえた。
ふたりが一斉に振り返ると、そこには――
担任の松永卓が立っていた。
「おや、ふたりとも……ずいぶん遅くまでいるんだな」
柔らかな笑顔。
しかし、その目は……笑っていなかった。
静かな席の隣で
桜の花びらが、昇降口の前でふわりと舞った。
朝の光の中、通学路を歩いてきた生徒たちが、次々に校舎へ吸い込まれていく。
その中にあって、ただひとり、教室の一番奥の窓際――水野真白の隣の席で、静かに本を読んでいる少女がいた。
新名沙月(にいな さつき)。
感情の起伏が少なく、クラスでもあまり話さない。どこか、他人と一線を引いているような雰囲気をまとっていた。
だが尚人の記憶の中で、彼女は**真白の隣にいた“目撃者”**として、強く印象に残っていた。
(……事件のあと、彼女はまるで何もなかったように、黙っていた)
その沈黙が、当時はただの無関心に見えていた。
けれど今、尚人は確信していた。
彼女は何かを知っている。
だからこそ、あのとき何も言わなかったんだ。
昼休み、尚人は意を決して彼女に声をかけた。
「……ねえ、新名さん。ちょっと、話せるかな?」
彼女はゆっくりと顔を上げた。
薄茶色の髪が、さらりと肩に落ちる。瞳は驚いたようにも見えたが、すぐに何も言わずにうなずいた。
場所は図書室のさらに奥、使われていない小さな資料閲覧コーナー。
淡い光が射し込む窓辺に、ふたりは無言で腰を下ろした。
沈黙が流れた。
風がカーテンを揺らし、時計の針の音がやけに大きく聞こえた。
「……真白のことなんだけど」
尚人の言葉に、沙月の肩がぴくりと動いた。
「なにか……知ってるよね? あの子が何を恐れてたか。失踪する前に、何をしてたのか」
「……」
沙月は、机の端を見つめたまま口を閉ざしていた。
けれどその指先が、ほんのわずかに震えていることに、尚人は気づいた。
やがて、彼女はぽつりと口を開いた。
「……真白ちゃん、最後の方……毎日、何かをノートに書いてたの」
「ノート?」
「“秘密ノート”って呼んでた。自分だけの考えを書いてるって」
それは、尚人が前日に見つけた“交換ノート”とは別物だ。
「そのノート、見せてもらったことある?」
「……一度だけ。ほんの少しだけ、ページをめくっていいよって言われて」
沙月の声は、かすれていた。
「怖かった。書いてあることが、怖かったの」
「なにが……書いてあったの?」
彼女は、視線を下に落としたまま、ぽつぽつと語り始めた。
「……私の近くにいる“大人”が、変だ。
やさしい顔で、嘘をつく。
このままだと、私のこと、消される。
でも、私は何もしてない。
どうして、ねえ、誰か、助けて。」
沙月はそのページを見たあと、怖くなって、それ以上は見なかったと言った。
だがその後、真白は「もう、誰にも見せられない」と言って、そのノートを持ち帰ってしまった。
それが、彼女を最後に見た日だった。
「真白ちゃん、言ってた。“信じたい人がいる”って。
でも、その人のことを信じていいのか、迷ってるって」
「それって……誰か、特定の“大人”だったの?」
「わからない。名前も言わなかった。
でも……その日の放課後、公民館の近くに行くって言ってた。
“これで最後にする”って言ってたの……」
(……やはり、あの日、真白は誰かと“会う約束”をしていた)
尚人の心がざわめく。
真白が会おうとしていた相手は誰なのか――
沙月は、さらに続けた。
「あのね、あの日の放課後、私……彼女のあとを、少しだけつけていったの。心配だったから」
「……!」
「公民館じゃなかった。裏庭のほう……学校の。誰もいないはずの時間に、彼女は裏手の茂みに入っていって……」
「そこで……何を?」
「分からない。私、途中で怖くなって、隠れてたの。
でも見たの。誰かが真白ちゃんに近づいてくるのを」
「誰……だった?」
「大人だった。大人の男の人。スーツじゃなかったけど……上下が黒っぽい服。顔までは……見えなかった」
それは明らかに教師でもなければ、保護者でもない“何者か”の存在だった。
(真白の恐れていた“大人”。
それは、実在していた……!)
ふいに、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
扉がゆっくりと開き――姿を現したのは、松永先生だった。
「おや、ふたりとも……ここにいたのか」
柔らかな笑顔。
けれどその背後から差し込む光に、尚人は寒気を感じた。
「休み時間だぞ。戻る時間だ」
沙月は無言で立ち上がった。
尚人も後に続きながら、背中にひたひたと迫る気配を感じていた。
教室に戻ると、ざわついた空気が包んでいた。
矢崎隼人が、教室の隅でなにやら興奮気味に叫んでいる。
「おい、早川! ちょっと来い! ヤバいもん見つけた!」
「え、なに?」
「俺、保健室の棚から、めっちゃ怪しいモン見つけたんだよ!
写真が、あったんだよ。俺らのじゃない。大人と……真白の、ツーショットが!」
尚人の心臓が大きく脈を打った。
「……誰と?」
「それがさ――」
言いかけたその時、廊下から怒鳴り声が飛んだ。
「矢崎ーーっ!! 廊下を走るなって言っただろう!!」
生活指導の教師が、怒鳴りながら向かってくる。
隼人は舌打ちをして、尚人の耳元でこっそり囁いた。
「放課後、体育倉庫の裏に来い。写真、見せてやる」
その言葉を最後に、彼は逃げるように教室を飛び出していった。
尚人は自分の席に戻り、窓の外を見つめた。
春の光が、どこまでもやさしく降り注いでいた。
けれどその光の奥に、確かに“何か”が潜んでいる。
誰が、真白を消そうとしたのか――
そして彼女が最後に見つめた相手は、いったい誰だったのか。
真実は、すぐそこまで近づいていた。
放課後の校舎は、人がいなくなると驚くほど静かだった。
蛍光灯のちらつき、誰もいない廊下の先で聞こえる風の音、わずかな板のきしみ。
それらが、やけに大きく、耳に残る。
尚人は、校庭の奥――体育倉庫の裏手に向かっていた。
約束の場所。
矢崎隼人が「ヤバいもん見つけた」と言っていたあの言葉が、胸に残響のようにこだましている。
(もし、それが真白と“大人”の接触を記録したものだったら……)
もしも、その“大人”の正体がわかったら。
失踪事件は、大きく動き出す。
この13年間、誰も手をつけられなかった謎に、自分たちの手が届くのだ。
「よう、来たな」
倉庫の影から現れた隼人は、肩にリュックを背負い、いつもの調子で笑っていた。
「ごめん、待たせた?」
「いや、今来たとこ。てかさ、見ろよコレ」
そう言って彼が取り出したのは、薄い紙袋だった。
中から出てきたのは、数枚の古い写真。光の反射でやや色褪せている。
そのうちの一枚――尚人は息を呑んだ。
そこに写っていたのは、明らかに“真白”と“大人の女性”だった。
写真は、公民館の裏手と思われる場所で撮られたもの。
真白は座っていて、隣には黒髪の女性がしゃがみ込んで、彼女に何かを話しかけていた。
服装は、黒いカーディガンとロングスカート。
はっきり顔が写っているわけではないが、その立ち姿――雰囲気――
尚人は即座に脳内で“ある人物”と結びつけた。
(……黒崎芽衣だ)
町の公民館のボランティアスタッフ。
子どもたちに絵本の読み聞かせをしてくれる、優しいお姉さん――そういう顔をしていた。
だが、真白が失踪する直前に頻繁に公民館に通っていたこと。
そして、公民館の記録に彼女の名前がほとんど残っていなかったこと。
偶然にしては、不自然すぎる。
「どうした? 知ってる人か?」
尚人は写真を見つめながら、小さく頷いた。
「たぶん……黒崎芽衣さん。公民館の人。真白、よく会ってたみたいなんだ」
「まじかよ……でもな、それだけじゃないんだ」
「え?」
隼人は別の写真を手渡してきた。
そこには、また別の日と思われる写真。
同じように真白が写っていた。だが、今度は彼女の表情が明らかに強張っている。
大人の女性が彼女の腕をつかんでいるように見える――その仕草に、やわらかさはなかった。
そして写真の端には、別の人物の“影”が映り込んでいた。
(……もう一人?)
写真を見ていると、じわりと冷たい汗が背筋を這っていく。
「なあ、これ……やばくね? 先生に言ったほうがいいんじゃねぇの?」
隼人が呟いたその言葉に、尚人は即座に首を振った。
「だめだ。下手に騒げば、証拠が握り潰される可能性もある」
「え、どういう意味だよ?」
「俺、あの先生――松永先生のこと、完全には信用してない」
「うっそ……あの人、めちゃくちゃいい先生じゃん。俺らのこと、ちゃんと見てくれるし」
「それが逆に怖いんだよ。完璧すぎる。
それに……俺が未来で見た資料には、松永先生の証言に“矛盾”があった」
尚人は息を整え、続けた。
「事件の翌日、先生は“真白がどこに向かったかは知らない”って証言してる。
けど、本当はあの時間、職員室から裏庭を見てたって記録があるんだ。
もし、そこに真白がいたのを見たのなら、なぜそれを黙っていたのか」
「……まじかよ……それって……」
「まだ、推測だけど……“知ってて黙ってた”なら、何かを庇ってる。もしくは……共犯の可能性もある」
その言葉に、隼人は目を見開いた。
だが、彼はすぐに顔を引き締め、尚人の肩を軽く叩いた。
「……分かった。とにかく、お前と一緒に動くよ。今まで逃げてたけど、俺もあの時、後悔してたからさ」
「ありがとう。助かる」
ふたりは握手を交わし、写真を封筒に戻して慎重に保管した。
夕方の帰り道。
尚人は、公民館の前を通りかかった。
ふと窓の奥を覗くと、そこに黒崎芽衣の姿があった。
整った髪型に、品のある身のこなし。
子どもたちに読み聞かせをするその横顔は、まるで“やさしさの化身”のようだった。
けれど尚人は、もう騙されなかった。
(君の笑顔の裏に、何がある?
なぜ、あの写真の君は、真白を怒っていた?
なぜ、町の記録に君の足跡は残っていない?)
まるで、その視線に気づいたかのように、芽衣が顔を上げた。
尚人と目が合う。
ほんの一瞬――彼女の笑顔が、消えた気がした。
「……!」
尚人は足早にその場を立ち去った。
その夜。
尚人の部屋の窓に、静かに雨が降り始めた。
机の上に並べられた写真。
そこに写る、笑っていない真白の顔が、尚人の心を締めつける。
(ごめん。あの時、俺は……君を見ていなかった)
けれど今は違う。
今度こそ、守ると決めた。
彼女の“なにかを訴えている瞳”を、見逃さない。
ふと、写真の裏に文字が書かれているのに気づいた。
4月10日 図書室裏
(……この日付。事件の2日前)
次なる目的地は、はっきりしていた。
「ねえ、尚人くん。
優しい人って、いつも正しいのかな?」
放課後の図書室。夕日が差し込む窓際で、岸本彩がつぶやいた。
「……どういう意味?」
尚人が問い返すと、彼女は手元の本を閉じ、静かに言った。
「私はね、小さい頃から“大人の言葉”が信用できなかったの。
優しそうに見せる人ほど、裏で何を考えてるのか、わからないから」
その言葉に、尚人はドキリとした。
それはまさに――今、尚人が感じていることと重なっていた。
「……松永先生のこと?」
「うん。あの人の“優しさ”、気持ち悪いくらい完璧すぎる。
子どもに嫌われないように、声のトーンも、話すスピードも全部計算されてる気がする」
彩の目は真っ直ぐだった。
あどけないはずの12歳の少女が、まるで大人の探偵のように、鋭く真実を見抜いていた。
「私ね、調べたの。先生の勤務記録。
そしたら、ちょっと変なところがあって……」
彼女は、図書室でコピーしたプリントを尚人に差し出した。
それは、学校の職員配置表だった。
見ると、松永先生は2年前にこの小学校に赴任してきたと書かれていた。
「でもね、先生はよく“この学校にずっといる”って言ってるの。
おかしいと思わない? “前から知ってる”って言い方、何度もしてたよ」
(……確かに……それは、記憶と食い違ってる)
「それにもう一つ。事件のあった日、先生が“どこにいたか”を誰も確認してないの。
アリバイが、ふわっとしてるんだよね」
尚人は、その言葉を聞いて思い出した。
未来の世界で見た事件資料に、**松永先生の証言は“裏取りがされなかった”**という一文があったことを。
「……岸本さん、本当にすごいな」
「ありがとう。でも、“彩”でいいって言ったじゃん。
それに、私だけじゃない。君も……本気で真白ちゃんを助けたいんでしょ?」
尚人は頷いた。
「もう一度会えたんだ。笑ってくれるなら、何だってする」
その日の帰り道。
尚人と彩は、松永先生の帰りを“偶然を装って”待っていた。
しばらくして、教員玄関からスーツ姿の松永先生が現れた。
手に鞄を提げ、誰にも気づかれないよう静かに足を運んでいる。
「行こう」
尚人は声をかけ、ふたりでゆっくりと後をつけた。
先生はそのまま、駅前とは反対方向――公民館方面へ向かっていた。
辺りは夕暮れの光が消えかけて、街灯がポツポツと灯り始めている。
しばらくして、先生は足を止めた。
そこは――かつて尚人が真白が通っていたと知ったあの公民館の裏手だった。
先生は、バッグから何かを取り出している。
黒いファイル。中には、紙が何枚も挟まれているようだ。
「……あれ、記録じゃない?」と彩がささやいた。
尚人は、息を潜めて近づいた。
その時、カサリと足元の落ち葉を踏んでしまった。
「……誰か、いるのか?」
松永先生が、背後を振り返る。
瞬間、尚人と彩は植え込みの陰に身を潜めた。
心臓が、いやに大きな音を立てている。
先生はしばらく周囲を見回した後、何もなかったように再び歩き出した。
やがて、公民館の裏手の鍵付きの扉を開け、中へと消えていった。
「……やっぱり、おかしい」
彩が小さくつぶやく。
「学校の先生が、こんな時間にこっそり来る場所じゃないよ。
それも、あんな記録みたいなファイルまで持って」
「中に何があるか、確かめないと……」
尚人は、強く拳を握った。
その夜。
尚人は再び“真白のノート”を開いた。
震える文字で書かれた文章。
「あの人は、いつも笑ってる。
でも、その目は、何も感じていない。
……私は、あの目が怖い。
気づいてほしい。誰かに、本当のことを」
(“あの人”……それが誰を指しているのか、まだ断定できない)
けれど、“いつも笑っている”という記述は、否応なく松永先生を思い起こさせた。
誰よりも親切で、誰よりも生徒想いで、
だけど――心のどこにも“熱”が感じられないような笑顔。
(まるで、仮面をかぶっているみたいに)
ふと、机の上に置いた写真の一枚が目に入った。
そこには、真白と“あの女性”――黒崎芽衣が写っていた。
だがその写真の端、ぼんやりと映り込んだ“影”が……どこか、見覚えのある体格だった。
(もしかして……松永先生も、“あの日”公民館にいた?)
尚人は、心の奥底がぐらりと揺れるのを感じた。
翌朝。
学校に向かう通学路の途中で、尚人は思いがけず真白と出会った。
「おはよう、早川くん」
変わらぬ笑顔。けれど、目の下にはほんの少し、影が落ちていた。
「なんだか……疲れてない?」
「え……バレた?」
「うん。ちょっとだけ」
彼女は困ったように笑って、前髪を耳にかけた。
「昨日の夜、夢を見たの。
なんか、後ろに誰かがいて……すっごく怖くて、起きたら汗びっしょり」
「……その人の顔、見えた?」
「見えなかった。でも……あったかい声だった。
“真白はちゃんと約束を守れる子だよね?”って」
尚人は、耳の奥がヒリつくような感覚を覚えた。
(誰だ、それは……?)
優しい声。だけど、恐怖の中に残ったのは“温もり”ではなく“寒さ”。
「ねえ、早川くん」
「うん?」
「もし私が……どこかへ行っちゃっても、ちゃんと見つけてくれる?」
「……もちろん」
その問いかけが、胸の奥に突き刺さる。
まだ、未来は変わっていない。
だけど――今なら、まだ間に合う。
記録のない来館者
「ここだよ、公民館。
真白ちゃんがよく来てたって言われてる場所」
放課後の午後三時すぎ。
尚人と彩は、町の中心にある小さな公民館の前に立っていた。
レンガ造りの低い建物。
外観は新しさと古さが混じり合い、町の時間の流れをそのまま体現しているかのようだった。
掲示板には地域の絵画教室や読み聞かせ会のチラシが貼られている。
その中に、見覚えのある名前があった。
「読み聞かせ会 担当:黒崎芽衣」
尚人は無言でそのチラシを見つめた。
(やはり、彼女が関わっていた……)
「行こう」と、彩が声をかける。
ふたりは、ガラスの自動ドアをくぐった。
中は静かで、ほんのり紙と木の匂いが漂っていた。
受付には、笑顔の女性職員が座っている。
「いらっしゃい。何かお探しですか?」
「えっと……こんにちは。実は、最近この公民館に来てた友達のことを調べたくて……」と尚人。
「水野真白さんっていう子です。読み聞かせ会に通ってたって聞いたので」と彩が続ける。
受付の女性は少し驚いた顔をしたが、すぐに表情を戻した。
「水野さん……ああ、はい。確かに何度かいらしてましたね。
でも、来館記録を確認しないと……少々お待ちください」
女性が奥へ下がっていった後、尚人と彩は視線を交わした。
「彩、ここに黒崎さんの名前がちゃんと残っていれば……」
「でも、なかったら?」
「“足跡を消してる”ってことだ」
そのとき、受付の女性が記録ノートを持って戻ってきた。
「こちらが4月の来館記録になります」
尚人は思わず手が震えそうになるのを抑えながら、ページをめくった。
【来館者記録:4月4日】
水野真白(図書室)
杉山勇太(将棋サークル)
石田由美子(読み聞かせ会)
……
【来館者記録:4月6日】
水野真白(図書室)
新名沙月(読書スペース)
……
4月10日、事件の2日前――
そこにも、真白の名前は記されていた。
だが、どの日にも――黒崎芽衣の名前は一度も記されていなかった。
「……ありませんね。黒崎さんは、ここのスタッフの方ですよね?」と彩が問いかける。
女性は少しだけ、口ごもった。
「……黒崎さんは、正式な職員ではなくて、地域ボランティアという形で不定期に出入りしています。
ですので、来館記録には残らないこともあります」
「でも、読み聞かせのチラシには“担当:黒崎芽衣”ってはっきり書いてあります。
それでも記録されないんですか?」
彩の目が鋭く光った。
「ええ……まぁ、ちょっと特殊な事情がありまして。
彼女、ここに来る前に……別の町で少し、問題があったらしくて」
尚人は、その一言に反応した。
「問題?」
受付の女性は、慌てたように首を横に振った。
「い、いえ、別に大ごとではありません。
でも一時期、児童への対応の仕方について苦情が入ったと聞いています。
だから、こちらでも様子を見ながら……という形で……」
(……なるほど、だから“名前を残さない”ようにしていたのか)
尚人の中で、断片だった情報が繋がっていく。
・真白が頻繁に通っていた公民館
・読み聞かせをしていた黒崎芽衣
・その存在は記録に残されていない
・過去に、子どもとの“接し方”に問題を起こしていた
そして――
・真白がノートに残した「優しい顔で嘘をつく“大人”」という言葉
「すみません……その、黒崎さんには今日会えますか?」と尚人。
受付の女性は困ったように首を振った。
「今日は、お休みだと思います。
でも……公民館の裏手にある倉庫で、よく個人で作業されているみたいです」
(裏手……あの、先生が夜に訪れていた場所と同じだ)
ふと、彩が尚人の袖を軽く引いた。
「早川くん、行ってみよう。今なら、何か“消される前”かもしれない」
「……うん」
裏手へ回ると、そこには古びた倉庫があった。
扉の前には鍵はかかっていない。
慎重に扉を開けると、埃と紙の匂いが鼻を突いた。
倉庫の中には、段ボールが積み上げられている。
そのうちのひとつが、わずかに開いていた。
尚人がそっと中を覗くと――
そこには、ノートが数十冊入っていた。
表紙には、子どもたちの名前がそれぞれ書かれている。
絵本の感想、感想文、作文――どれも、個人情報そのものだ。
「これ……読み聞かせの子たちの……?」
「それを、なんでここに隠してるの……?」
彩が手に取ったノートのひとつ――
そこには、見覚えのある名前が書かれていた。
「水野真白」
尚人の鼓動が一気に高まる。
中を開くと、丁寧な文字でこう綴られていた。
「お話、ありがとうございました。
今日も楽しかったです。
でも、わたし、もう来るのやめようと思います。
あのこと、誰かに言ったら、怒られる気がするから」
その文章の下に――黒いインクで、何かが書かれていた。
後から加筆されたように見える。
「秘密を守れない子は、きっと嫌われちゃうよ」
(これは……誰が書いた?)
尚人は、ぞっとした。
文字の雰囲気が、真白の筆跡と違っている。
大人の、なめらかすぎる文字だった。
(誰かが、真白に“黙ってろ”と脅していた?)
彩が震える声で言った。
「これ、証拠だよ。……真白ちゃん、誰かに“言えなくされてた”んだ」
尚人は、ノートをそっと胸に抱いた。
「……あの日の約束、“最後にする”って言ってたのは、このことだったのかも」
「つまり、真白ちゃんは……“誰か”の秘密を知ってしまった」
「そして、その秘密を口にしようとした瞬間……姿を消した」
空気が、急に冷たくなった気がした。
倉庫の奥から、木がきしむ音がした。
「誰か……いるの?」
彩がささやくように言った。
だが、返事はなかった。
沈黙の中で、尚人は確信していた。
もう、戻れないところまで来てしまった。
だが、だからこそ――
彼女を、守りきる。
絶対に、失わせない。
春の風は、いつもより冷たかった。
翌朝の教室。
騒がしい子どもたちの声の中で、尚人はふと一人の少女を見つめていた。
――新名沙月(にいな さつき)
静かにノートを開き、誰とも言葉を交わさずに過ごしている少女。
けれど尚人には分かっていた。
彼女は真白にとって、唯一「最後の秘密」を託した存在だった。
あの春の日。
真白が「約束の相手に会いに行く」と言った日。
沙月は確かにそれを知っていた。けれど、それを誰にも話していなかった。
(あの日、何があったのか。
なぜ君は、沈黙を選んだのか)
その答えを知るために、尚人は再び彼女の元へ向かう決意をした。
昼休み。
図書室の一番奥、閉鎖された古い参考書コーナー。
尚人は沙月に声をかけた。
「新名さん。……少し、話せる?」
彼女は、ほんのわずかにまぶたを動かして、無言で頷いた。
「……今朝、倉庫で真白のノートを見つけたんだ。
そこに“最後にする”って、書かれてた。
それはきっと、“何かを終わらせるための行動”だったんだと思う」
沙月の手が止まった。
尚人は、静かに言葉を続けた。
「……そのことを、知っていたのは君だけだった。
だから、もう……話してくれないかな。
真白は、君に何を託したの?」
沈黙。
けれど、それは“拒絶”のものではなかった。
彼女の中で、長いあいだ閉じられていた扉が、軋むように動き始めているのを尚人は感じた。
「……ほんとうは、話さないって決めてたの」
ぽつりと、沙月がつぶやいた。
「真白ちゃんは、“誰かを傷つけてしまうかもしれない”って、すごく怖がってた。
自分が何かを言ったせいで、誰かがいなくなるんじゃないかって。
それくらい、“信じてた大人”に裏切られたってこと……怖かったんだと思う」
「……その“大人”って、やっぱり……黒崎さん?」
沙月は首を振った。
「違う。……私は、先生のことだと思ってた。
でもね、真白ちゃんが最後に私に言ったの。
“この人だけは違うと思いたい”って」
(この人“だけ”は違う。
その“だけ”に込められた切実な希望――)
「でね、私に“これを持ってて”って言って、くれたの」
沙月は、そっとリュックの中から一冊の小さなノートを取り出した。
それは、古びたスケジュール帳のような見た目だった。
表紙には何の文字も書かれていない。
「“このノートを、誰にも見せないで”って。
“でももし私がいなくなって、早川くんが真実を知ろうとしてたら、渡して”って……」
尚人は目を見開いた。
(俺の名前……!?
真白が、俺のことを――)
「私は……怖かったの。
誰にも言えなかった。
このノートに書かれてることが、本当に誰かを傷つけるかもしれないって思ったから」
沙月は震える手でノートを差し出した。
「でも、今は分かる。
尚人くんなら、きっと真白ちゃんを救える。
だから、お願い。これを読んで」
尚人は、ノートを受け取った。
その重みは、ただの紙の重さじゃなかった。
彼女の“命の重さ”だった。
放課後、自宅の机の上。
尚人は震える手で、ノートのページをめくった。
最初のページには、真白の文字でこう書かれていた。
「これは、私が見たこと、感じたこと、誰にも言えなかったことを、
一つずつ書き残す場所です。
もしこのノートが見つかったとき、私がそばにいなかったら――
それは、きっと誰かのせいです。
だけど、私を責めないでください。
私は、私なりに戦っていたから。」
ページをめくるごとに、尚人の胸は重く、そして締めつけられていった。
「黒崎さんは、最初は本当に優しかった。
読み聞かせも、工作も、たのしかった。
でも、ある日から、“他の子には内緒ね”って言いながら、
変な質問をするようになった。
“家でひとりになる時間はいつ?”
“夜、寝る時間は何時?”
“お父さんとお母さん、仲いい?”
……私には分からなかったけど、変だって思った」
「ある日、公民館の裏で誰かと話してた。
黒い服を着た男の人。
顔は見えなかった。
でも、その人が帰った後、黒崎さんの顔が怖くて……」
「松永先生は、黒崎さんのことをよく知ってるみたいだった。
公民館の読み聞かせ会のこと、学校では一切話してないのに、知ってた。
“よく行ってるらしいな”って言われたとき、ドキッとした」
「私は、気づいちゃいけないことに気づいてしまった。
でも、もう止められない。
誰かがこのことを知って、何かが変わるなら……
私は、それでもいいと思う。
でも……やっぱり、怖いよ。
誰を信じていいのか、分からないよ……」
尚人の頬を、涙が伝った。
真白は、たったひとりでこんなにも戦っていた。
誰にも頼れず、けれど、それでも誰かを信じようとしていた。
そして、その“誰か”に、自分の名前を書き残してくれていた。
「早川くんなら、きっと気づいてくれる。
気づいてくれたら、私、きっと救われると思う。
だから、お願い。
どうか、君が私を見つけて。
君に、見つけてほしいの。」
尚人は、ノートを胸に抱きしめた。
「……絶対に、見つける。
俺が……必ず、君を連れ戻す」
もう、迷いはなかった。
心の中で、何かが確かに決まった。
その夜。
外では雨が静かに降っていた。
けれど尚人の心には、確かな炎が灯っていた。
あと数日。
真白が消えるその日までに、すべての真実を明らかにする。
あの日、君を守れなかった後悔を、
今度こそ、終わらせるために。
翌朝、目覚めた瞬間――尚人は胸の奥に、言葉にならない不安を感じていた。
陽はいつもと同じように昇り、鳥は鳴き、通学路には同じ春の風が吹いている。
けれど、何かが違っていた。
(何かが……ずれている)
足元の地面がかすかに揺れているような錯覚。
体が軽く、浮いているような感覚。
まるで、世界との接点が、少しずつ剥がれはじめているような。
「……時間が……戻り始めてる?」
尚人は、無意識にポケットの中の小さなノートを握りしめた。
真白が遺したノート。彼女の言葉と祈りが綴られたその記録だけが、自分とこの世界を繋いでいるような気がした。
(まだ、帰るわけにはいかない……)
あと数日。
真白が失踪する、あの日までは。
その日の昼休み、尚人は岸本彩と再び合流した。
彼女の目はすでに「一緒に戦う者」の覚悟を宿していた。
「どうだった、あのノート」
「……全部、読んだ。
真白は、黒崎さんや松永先生のことを疑っていた。
でも、最後まで“信じたい”って書いてた。……それが、逆に辛かった」
「真白ちゃん、ずっと独りだったんだね。
でも、尚人くんの名前を信じて託してくれたってことは……
その時間は、無駄じゃなかったんだよ」
彩は、静かにそう言った。
「それとね。あのノートの中に、“学校の旧図書室”って言葉が出てきた。
“事件の2日前、そこに寄ってから誰かと会った”って」
「旧図書室?」
「うん、今は使われてない。職員室の奥の階段を下りた地下の部屋。
10年前に閉鎖されたって言われてるけど、鍵が壊れてて入れるって噂がある」
尚人は頷いた。
「行こう。今日の放課後。そこに何かがある」
放課後、校舎の奥――職員室のさらに先、薄暗い階段を下りると、埃の匂いが鼻をついた。
「旧図書室」と呼ばれていたその空間は、今では忘れ去られたように使われていなかった。
金属の扉は少しだけ開いていた。
きぃ……と音を立てて押すと、中には古い書棚と、折れた机、積まれたダンボールの山。
「ここで、真白は……?」
彩が呟くように言った。
尚人は、机の一つに目をとめた。
そこに、何かが彫られていた。
「見た。
でも、見なかったことにしない。
4/10」
その日付――事件の2日前。
尚人は机の裏に手を差し込んだ。
そこには、何かが貼り付けられていた。
テープで留められた、小さなボイスレコーダーだった。
「……再生してみる?」
彩が言った。
尚人は無言で頷き、録音ボタンを押した。
≪ガサッ……≫
≪……真白ちゃん、誰かに話したの?≫
(……黒崎芽衣の声?)
≪あの話は、誰にもしてはいけないって言ったわよね?
私たちだけの“約束”だったでしょ?≫
≪……ごめんなさい。でも、もう怖くて……≫
≪……早川くんにだけは、話したいと思って……≫
≪早川? 早川尚人……? ふぅん……
その子、知ってる。成績は普通、運動はダメ。でも“素直な子”って先生が言ってた≫
≪な、なんでそんなこと……≫
≪お願いだから。もう、誰にも言わないで。
言ったら……きっと、後悔することになるから。≫
≪…………≫
≪真白ちゃんは、嘘をつくのが苦手でしょう?
だったら、大人の言うことを聞いて。あなたにとって、それが一番“正しい”の≫
≪……やだ……もう、やめて……≫
≪言えないのよ。分かるわよね?
だって、“見たんでしょう”。
“あの人”と私が、公民館の裏で――≫
――ピピッ。
録音は、そこで途切れていた。
沈黙。
二人とも、しばらく何も言えなかった。
真白は、明らかに“何かを見てしまった”。
そして、それは「黒崎芽衣」と「もう一人の大人」に関わるものだった。
「……尚人くん、時間がない。今のうちに、この録音データ、外部にコピーしないと」
「でも……このレコーダー、いつのまにか録音が止まってた。途中で誰かが切ったんだ」
「ってことは……」
「この空間で、“誰かが気づいた”んだ。真白が録音してたことに」
そのときだった。
尚人の視界が、ぐらりと揺れた。
(……?)
呼吸が浅くなる。
光が遠のく。耳鳴りが、心臓の鼓動と重なり、視界の縁が黒く染まりはじめる。
「尚人くん!? どうしたの!?」
彩の声が遠くなる。
目の前の空間が、波打つように揺れ――まるで、時空そのものが自分を拒絶しているようだった。
(……まずい……“時間が、戻そうとしてる”)
――この世界に、いられるのは、あと少し。
「いやだ……まだ戻れない……!」
尚人は、全力で叫んだ。
過去の世界に、しがみつくように、心の奥で叫び続けた。
≪俺はまだ、君を救ってない――!
真白を、助けられてない!!≫
そのとき、レコーダーの再生ボタンが誤って押され、再び音が流れた。
≪……尚人くん。もし、これを聞いているなら。
きっと、君は私を探してくれてるんだね。ありがとう。
君が、わたしの名前を呼んでくれるって……信じてた。≫
(――真白……!)
≪でも、どうか、無理だけはしないで。
君が笑っててくれれば、それだけで、私、嬉しいから。
でももし、もしも私を見つけたら――
その時は、笑って言ってね。
「もう、大丈夫だよ」って――≫
ぐわん、と世界が白く染まりかけたその瞬間――
尚人の身体が、ぴたりと止まった。
意識が、再び、現実の地に戻っていた。
「尚人くん!!」
気づけば、彩が肩を掴んでいた。
心配そうに、そして――涙ぐんで。
「……戻れた……?」
「分からない。でも、なにかが“踏みとどまった”。
たぶん、真白ちゃんが、君を引き留めたんだよ」
尚人は、息を整えながら、心の中で強く、強く思った。
(ありがとう、真白。
俺は絶対に……君を、助けてみせる)
矢印の先に
放課後、空は淡い夕焼けに染まっていた。
太陽がゆっくりと沈むにつれ、町全体が静かに、その色を朱へと変えていく。
尚人と彩は、公民館の裏手に立っていた。
前日、レコーダーの音声で真白が「誰かと会った」と話していた場所――
そこには、誰の目にもつかない小道が伸びていた。
低いフェンスを越え、雑木林のように伸びた枝の間を縫うように進むと、空気が一気に湿り気を帯びていく。
「ここ……来たことない」
彩が、緊張した面持ちで呟いた。
尚人は、記憶を頼りに足を進めていた。
13年前、真白が失踪した“最初の目撃情報”が記録されていたのが、まさにこの小道の先だったからだ。
「……誰も通らない。こんな場所、地元の子でも知らない」
「でも真白は、ここに来たんだよね」
「うん。ノートに書かれてた。“誰も来ない場所に導かれるみたい”って」
やがて、小道の先にぽっかりと空間が開けた。
そこは、草むらに囲まれた小さな広場だった。
朽ちたベンチがひとつ。
倒れた看板が一枚――そして、その看板の裏に、何かが書かれているのが見えた。
「……文字?」
ふたりは駆け寄った。
看板の裏には、チョークで書かれた小さな矢印がいくつも並んでいた。
→ → → ×
→ → ← ◎
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「これは……?」
「なにかの暗号……?いや、順路かもしれない」
尚人が指でなぞる。
「“×”と“◎”……間違った道と、正しい道……?」
「この場所って、地図に載ってないから、誰かが“道案内”として残した可能性がある」
「でも、こんな分かりにくい形で……?」
尚人は、ふと“旧図書室”で見つけたレコーダーの中の言葉を思い出す。
「君が、わたしの名前を呼んでくれるって信じてた。
でももし、私を見つけたら――“もう、大丈夫だよ”って言って」
あれは“直接の言葉”ではなかった。
まるで、ゲームのヒントのように――自分を導いてくれる、メッセージ。
(まさか、これは“真白からの矢印”?)
尚人は、地面に注意深く視線を落とした。
すると、わずかに土の色が違う部分に気づく。
「……掘り返された跡?」
その地点には、何かが埋まっていたような痕跡。
落ち葉をどけると、そこにあったのは――
錆びついた、小さな金属の箱。
「これ……鍵つきの金庫?」
尚人は胸を押さえながら、そっと取り出した。
蓋の側面には、油性ペンで小さく名前が書かれていた。
「M・M」
「……“水野真白”のイニシャル」
「でも……鍵がない」
彩が覗き込む。
その時、ふと風が吹き、地面に落ちていた木片が転がった。
その下から、何かが光った。
尚人はしゃがみこみ、それを拾い上げた。
――小さな鍵。
「まさか……!」
そっと差し込む。
カチリ、と音を立てて錠が外れた。
ふたりは息を呑んで、中を覗いた。
そこに入っていたのは――
● 写真が3枚
● 手紙が1通
● そして、細いリボンで結ばれた、ペンダントだった。
尚人は、手紙をそっと取り出した。
便箋には、丁寧な筆跡でこう書かれていた。
「もし、この箱を見つけたのが君なら――
それは、私が“信じた未来”があったってこと。
私は、もうどこにもいないかもしれない。
でも、どうしても言えなかった気持ちが、ここにある。
誰かを信じることって、すごく勇気がいる。
でも、私には君がいた。
気づいていたよ。いつも私を見てくれていたこと。
だから、最後に君に言いたかった。
――わたしは、君が好きでした。
あの春の教室で、君が消しゴムを貸してくれたとき、
優しかった声を、私は一生忘れない。
どうか、君の未来が笑っていられますように。
そして、もし“私”にもう一度会えたら――
ぎゅっと、抱きしめてくれたら、
それだけで、全部、報われる気がするの。」
読み終えた尚人の目には、涙が溢れていた。
その横で、彩も涙を拭っていた。
「真白ちゃん……ずっと……ずっと尚人くんのこと……」
尚人は、無言で小さく頷いた。
ペンダントの中には、小さな写真が入っていた。
二人が並んで笑っている――体育祭の日の、スナップショット。
(彼女は、こんなにも、俺を見ていてくれた)
そして、自分は――
あの時、何も言えなかった。何もできなかった。
でも今は違う。
「俺は……絶対に、君を見つける」
尚人の拳が、かすかに震えていた。
けれどその目は、決意に満ちていた。
「事件が起こるのは、明日だ」
「じゃあ――今日中に、“相手”を突き止めるしかない」
彩がきっぱりと告げた。
「誰が、真白ちゃんにあんな恐怖を与えていたのか。
黒崎さん? 松永先生? それとも、まだ見えていない“あの人”?」
尚人はポケットの中のメモを取り出した。
ノートに記された暗号。
彩が整理した職員の記録、出入りの時間、真白が話していた特徴。
それらをすべて重ね合わせると――
たった一人の名前が、浮かび上がってくる。
尚人は小さく呟いた。
「……“あの人”は、ずっと俺たちのすぐ近くにいた」
夕陽が完全に沈む頃。
尚人と彩は、学校の“ある一室”の前に立っていた。
その扉を開ける前に、尚人は静かに呟いた。
「これで……全部、終わらせる」
雨が、降りはじめていた。
4月11日。
真白が失踪する、その前日。
尚人は、教室の窓から校庭を見下ろしていた。
グラウンドに人の姿はなく、ただ、ぽつりぽつりと降り続ける雨が、静かに音を立てていた。
頭の中では、昨晩見つけた手紙の言葉が何度もリフレインしていた。
「――わたしは、君が好きでした」
「もし私にもう一度会えたら、ぎゅっと抱きしめてくれたら、全部、報われる」
尚人は机の下でそっと拳を握った。
(あの時、言えなかったこと。守れなかったこと。
今なら、届く気がする)
「……尚人くん」
肩を叩かれ、振り返ると彩が立っていた。
その目は、覚悟に満ちている。
「放課後、公園の裏に行こう。
“黒い傘の女”の目撃情報があったの、覚えてる?」
尚人は頷いた。
「13年前の調書にも、“あの日の夕方、黒い傘の女性が公園の東側にいた”って書かれてた。
でもその人物の名前は、最後まで分からなかった」
「今日、それを確かめる」
「……うん。決着をつけよう」
◆
夕方、放課後。
雨は本降りになっていた。
尚人と彩は、約束の場所――学校裏の公園の東側へ向かった。
そこは、木々が生い茂り、人通りもほとんどない、忘れられたような空間だった。
ふたりは傘を差して、静かに歩を進める。
そのときだった。
「あっ……」
彩が声を上げて指差した。
一本の細道の奥に――黒い傘を差した女の人影が、立っていた。
「まさか……!」
尚人は、躊躇なく駆けだした。
その背中を、彩が追う。
傘の女は、ふたりに気づくと、ゆっくりと振り返った。
その顔を見た瞬間、尚人の足が止まる。
「……黒崎さん……!」
黒崎芽衣。
公民館の読み聞かせ会の“ボランティア”として現れ、町に馴染んでいた優しい女性。
しかしその正体は、真白の記録の中で“恐怖の象徴”として記されていた。
彼女は微笑んでいた。
けれど、その笑顔に“温度”はなかった。
「こんなところで、何をしているの?」
「……あなたを、待っていました」
尚人は真っ直ぐに、彼女の目を見て言った。
「水野真白さんのことについて、話があります」
黒崎は微笑みを消した。
「……あの子のことなら、もうとっくに忘れましたよ。
あの子は、繊細で、妄想癖があった。勝手に怖がって、勝手にいなくなった。
それだけの話でしょう?」
その言葉に、尚人の胸がぐらりと揺れる。
「あなたは……あの子に、“誰にも言っちゃダメ”って脅したんじゃないんですか?」
「脅した? なんのことかしら」
「……レコーダーに、あなたの声が残ってました。
“真白は、嘘をつくのが苦手”――そう言って、追い詰めていた」
一瞬、黒崎の目が揺れた。
だが、すぐに平然とした笑みを取り戻す。
「子どもって、そういう妄想をよくするものよ。
優しさを“脅し”と受け取る子もいる。
それだけのことじゃない?」
「じゃあ、なぜ記録に名前を残さなかったんですか?
なぜ、公民館の出入り記録に一度もあなたの名前がない?
町の職員にさえ、“あなたの存在を確認できない”って言われてる」
尚人の声が強くなる。
彩も、前へ出て、はっきりと言った。
「あなたは、“過去”を隠してここに来た。
前の町で、児童とのトラブルがあった。
それを隠して、再び子どもに近づいた」
黒崎の笑顔が、消えた。
沈黙の雨の中で、彼女はゆっくりと口を開いた。
「……私はね、“いい子”が嫌いなの。
大人の言うことを素直に聞いて、ニコニコして、誰にも逆らわない。
そんな子を見ると、ね……教えたくなるの。
“世界は、そんなに優しくないよ”って」
その声には、狂気とも絶望ともつかない、冷たさが滲んでいた。
「真白は、特別だった。私が教えたこと、ちゃんと分かってくれた。
でも、途中から変わっていった。
あなたのせいよ、早川くん。
あの子があなたを信じるようになって、私の言葉が効かなくなった」
「それが理由で……あの子を……!」
「私は、何もしていないわ。
ただ、あの子が“ひとりで消えようとした”だけ。
この世界の優しさが、嘘だってことに気づいて」
黒崎芽衣は、黒い傘の下で、最後まで“加害者”ではなく、“観察者”として語った。
けれど尚人は、信じなかった。
「違う……真白は、そんなふうに“消えたい”なんて思ってなかった。
ノートに書いてた。
“早川くんに、見つけてほしい”って」
そして、手紙を掲げた。
「“君がもう一度、私の名前を呼んでくれたら、それだけで報われる”って。
あなたの言葉なんかより、俺は彼女の言葉を信じる!!」
黒崎は、目を伏せた。
しばらくして、静かに傘を閉じた。
「……そう。
じゃあ、見つけてあげなさい。
あの子が最後にいた場所を。
“私”があの子を置いてきた、あの場所を」
「……どこですか」
尚人が食い入るように問うと、黒崎はぽつりと答えた。
「学校の裏庭。
あの子、ずっと“帰りたい”って言ってたから。
“教室に戻りたい”って」
そして、踵を返し、雨の中へ消えていった。
尚人と彩は、すぐに学校へ向かった。
裏庭に広がる、誰も通らない古い倉庫の陰――
そこに、小さな傘と、濡れたランドセルが置かれていた。
「……真白……!!」
尚人は駆け寄り、傘の中に目をやった。
そこには、かすかに体温の残る毛布と、濡れたハンカチが置かれていた。
「いたんだ……! 本当に……ここに!」
「でも、真白ちゃんは……もう……」
「まだ間に合う!!」
尚人は叫んだ。
「明日が、失踪の“本番”だ。
今日、彼女はここに戻ってきてる。
でも明日、誰かが彼女を連れ去る――
それを止めれば、未来は変えられる!!」
「尚人くん……」
彩の目にも、涙が浮かんでいた。
「行こう。真白を、絶対に守ろう」
4月12日――その朝は、異様に静かだった。
校庭には鳥の声すらなく、灰色の雲が空一面を覆っていた。
風もなく、雨も降らず、まるでこの世界全体が息をひそめているようだった。
(今日が……真白が、いなくなる日)
尚人の心臓は、鼓動を忘れそうなほどに張りつめていた。
――でも今回は違う。
“その瞬間”を、尚人は知っている。
そして今度は、そこに立ち会える。
「絶対に……止めてみせる」
自分にそう言い聞かせ、教室の扉を開ける。
そこには、何も知らない子どもたちの笑顔と声。
そして――その席に、水野真白の姿があった。
(間に合った……! まだ、ここにいる)
尚人は心の中でそう叫んだ。
真白は静かに窓の外を見つめていた。
その横顔は、どこか決意を秘めたように硬く、美しかった。
「真白……」
名前を呼ぶと、彼女はゆっくりと振り返り、目を見開いた。
「……尚人くん?」
「……話したいことがある。
放課後、ちょっとだけ、時間をくれない?」
彼女は、ふっと微笑んで頷いた。
「うん、いいよ」
それだけの約束。
けれど尚人には、それが“運命を変える扉”のように感じられた。
放課後。
校舎の裏庭には誰の姿もなく、風だけが薄く吹いていた。
尚人はランドセルを肩にかけ、用具倉庫の横にある古いベンチに腰を下ろしていた。
(ここだ……この場所で、彼女は“誰か”と会った)
あの黒崎芽衣でさえ、「“連れ去った”のは自分ではない」と言っていた。
では――誰が、彼女を連れ去ったのか?
時計の針は16時15分を指していた。
(……そろそろのはずだ)
そのとき、木の影からゆっくりと歩いてくる人影があった。
「……来た」
尚人は立ち上がる。
目を凝らすと、それは……
――松永先生だった。
黒いジャンパー、白いシャツ、そして穏やかすぎる笑顔。
「……あれ、早川くん? こんなところでどうしたの?」
その声は、あまりに自然で、あまりに“普通”だった。
けれど、尚人の背中に冷たい汗が伝った。
(……嘘だろ)
先生は尚人の前に立ち、やさしく頭を撫でる。
「帰り道? 雨が降りそうだから、早く帰ったほうがいいよ」
「……先生は? 何してたんですか?」
「ちょっと用事があってね。倉庫のカギを確認してただけだよ」
それは、“彼”が何度も使ってきた口実。
記録にも、証言にも、何度も出てきた“倉庫の鍵確認”というワード。
(それは、アリバイの空白時間を埋める、完璧な嘘だった)
「……先生、昨日の夜、どこにいました?」
「……ん? 急にどうしたの?」
「公民館の裏にいたの、見ました。
真白さんのノートにも、レコーダーにも、あなたの名前は出ていません。
でも、あなたの声が映ってるんです」
尚人は、ポケットからレコーダーを取り出し、再生した。
――≪よく行ってるらしいな≫
――≪真白ちゃん、誰かに話したの?≫
松永先生の笑顔が、ふっと消えた。
そして……次の瞬間、口元に静かな笑みを戻した。
「……そっか。なるほど。君が、鍵を握ってたんだね」
その声は、いつもの“優しい声”だった。
だけど、その奥に、明らかな“冷たさ”があった。
「君、記憶が……おかしいんじゃないかな?」
「おかしいのは……先生の方です。
どうして、“真白を追い詰めた”んですか?」
「違うよ、尚人くん。
僕は、ただ“導いてあげた”だけなんだ。
真白ちゃんは、あまりにもまっすぐで、脆かった。
だから、ちょっとだけ、試したんだよ。
“自分で選べるように”って」
「選ばせた? それで、“消える”ことを選ばせたのが……試した、だって言うんですか!?」
尚人の叫びが、夕暮れに響いた。
松永は、静かに言った。
「ねえ、尚人くん。
君がもし、あのとき真白ちゃんに声をかけてたら――
もしかしたら、彼女は“いなくならずに済んだ”かもしれないよね?」
尚人の心臓が止まりそうになった。
それは、誰にも言われたくなかった言葉。
誰よりも自分が、自分自身に言い続けてきた“責め”。
「違う……!!
俺は、今ここにいる。過去に戻ってきた。
あのとき、できなかったことを、今こそやり直すために……!」
「だったら、やってごらんよ」
松永が微笑む。
「でも……時間は有限だ。
本当に彼女を救いたいなら、“何かを失う覚悟”も必要だよ」
その言葉が終わる前に――
「……もう、やめて」
声がした。
茂みの奥から、小さな影が現れた。
水野真白。
制服の裾を濡らしながら、怯えたような、それでいてしっかりとした足取りで歩いてきた。
「先生……やっぱり、あなたは優しくなかった」
「……真白ちゃん」
「私、本当に怖かった。
でも、やっぱり……早川くんの言葉、信じたかった」
尚人は彼女の前に立った。
守るように、盾になるように。
「大丈夫。俺がここにいる。
君は、どこにも行かなくていい」
真白は、かすかに笑った。
「……ありがとう」
松永は、もう何も言わなかった。
ただ静かに、背を向け、雨の中へと消えていった。
その夜、尚人は日記を開いた。
「今日、真白とちゃんと話せた。
君の声を聞けた。
……明日、世界がどう変わるか分からない。
でも、少なくとも今、俺は君を“失っていない”。」
最後の春の日
4月13日。
世界は――変わっていた。
陽ざしはやわらかく、風はあたたかい。
教室には、昨日と同じ春の光が差し込んでいる。
でも、尚人の胸の中にははっきりと、“違い”があった。
それは、
教室の一番後ろの窓際に――
水野真白の姿が、ちゃんと、在ること。
(……本当に、変わったんだ)
それは奇跡ではなく、選び取った「結果」だった。
尚人は、席に着く前に立ち止まり、彼女の姿を静かに見つめた。
ノートに向かう姿。
髪をかき上げる指先。
ときおり、周りの友達に小さく笑いかける表情。
13年前の自分が失って、忘れられなくなったすべてが、今ここに“ある”。
(間に合ったんだ、俺)
教室のドアから、岸本彩が顔を覗かせて手を振る。
尚人も小さく頷いて手を挙げた。
2人だけが知っているこの“時間の意味”を、誰にも話すことはできない。
けれどそれでも、互いに胸の中で静かに叫んでいた。
(ありがとう。君がいてくれたから、ここまで来れた)
昼休み。
尚人は、屋上の階段前の踊り場にいた。
そこに、真白がやってきた。
「やっぱり、ここにいた」
「……なんで分かったの?」
「なんとなく、君ならこの景色を見てる気がして」
尚人は、フェンス越しに広がる桜並木を見下ろした。
花びらが、風に舞い上がっては静かに落ちていく。
「昨日、ありがとうね。……助けてくれて」
「……あの場所に君がいる気がした。どうしてかは分からないけど、
あの日は、どうしても“君を探さなきゃ”って思ったんだ」
「ふふ……尚人くん、変だね」
「よく言われる」
真白は笑って、少しだけ頬を赤くした。
「……私、ちょっとだけ、怖かったの。
全部が終わって、私がこのまま“いなくなるんじゃないか”って。
でも君が来てくれて、本当に嬉しかった」
風が吹く。
尚人は、胸の内でずっと抱えていた言葉を、ようやく口にした。
「俺、君がいなくなってから、ずっと後悔してた。
もっとちゃんと見てればよかった。
声をかけてればよかった。
君が笑ってたあの時も、寂しそうだったあの時も、全部――見逃してた」
真白は黙って、尚人の目をじっと見ていた。
「……でも、今回戻ってきて、分かったんだ。
君は、強かった。
独りでも、ちゃんと立ってた。
俺なんかより、ずっと……」
「違うよ」
真白は、そっと尚人の手を握った。
「……独りじゃなかった。
ずっと、君がそばにいてくれた気がしてた。
誰にも言えなかったけど、私の中では、いつも君の声が支えだったの」
その言葉に、尚人の目に涙がにじんだ。
「……ありがとう」
「ううん。こちらこそ」
風が吹いた。
桜が、ふたりの間をふわりと舞う。
そして真白は、ポケットから小さな何かを取り出した。
「これ、渡したかったの」
それは、小さなペンダントだった。
13年前のあの日、尚人が落として失くしたもの。
「……これ……」
「探してたよ。
君が見つけてくれると思って、ずっと持ってた」
尚人は、それを手に取り、ぎゅっと握りしめた。
「じゃあ、これは……未来で返すね。
ちゃんと……また君に渡しに行く」
真白は、目を潤ませながら笑った。
「うん。待ってる」
その日の放課後。
尚人は、町を歩いていた。
見慣れた景色が、どこか“新しく”見えた。
(これが、彼女が守られた世界なんだ)
時計の針が、午後5時を指した瞬間――
世界が、ふわりと揺れた。
(……来る)
風の音が遠のく。
周囲の色が、ゆっくりと褪せていく。
時間が、彼を再び“元の場所”へ引き戻そうとしていた。
尚人は目を閉じ、深く息を吸った。
「もし私にもう一度会えたら、ぎゅっと抱きしめてくれたら――」
(……その時は、もう一度、君に会いに行くよ)
◆
――目を開けると、そこは自分の部屋だった。
壁のカレンダーは、「2025年4月13日」を示している。
(……戻ってきた)
時計の針は、午前8時。
静かな日曜日の朝。
カーテンの隙間から、春の光が差し込んでいる。
尚人は、ベッドからゆっくりと立ち上がり、机の上を見た。
そこには、何もない――
……かに見えた。
けれど、ひとつだけ。
机の上に、小さなペンダントが置かれていた。
(……これは……)
彼が、13年前に真白に“預けた”もの。
それが、ここにある。
つまり、あの春の日は、本当にあった。
彼は静かにペンダントを手に取り、目を閉じた。
(ありがとう、真白)
そして――
机の隅に置かれたスマートフォンが、1件の通知を表示した。
「久しぶり。早川くん、元気にしてる?」
送り主は――
水野真白。
現代の彼女からの、LINEメッセージだった。
尚人は、画面を見つめたまま、しばらく何も言えなかった。
だけど、やがて小さく笑って、こう打ち込んだ。
「あの春の日から、ずっと、君を探してた。
でも、もう大丈夫だね。
やっと……会えたから。」
日曜日の午後。
春の光がゆったりと町を包み込んでいた。
尚人は、駅前にある小さなカフェの前に立っていた。
落ち着いた木造りの外観。
ガラス越しには、午後の光に照らされた客席が見える。
ドアを開けると、チリンと小さなベルが鳴った。
カウンター越しに、店員が微笑む。
その奥――窓際の席。
そこに、ひとりの女性が座っていた。
水野真白。
あの頃の面影を残しながらも、しっかりと歳を重ねた顔。
黒髪は肩まで伸び、柔らかなブラウスに身を包んだ彼女は、ノートをめくっていた。
尚人が近づくと、彼女は顔を上げた。
そして、ふわりと――笑った。
「やっと、会えたね」
その瞬間、13年の時間が、音もなく崩れていくようだった。
(あの春の日の君が、
こうして“今”を生きてくれている――)
尚人は、言葉に詰まりながらも、笑い返した。
「……久しぶり、真白」
「本当に久しぶり。13年ぶり、かな」
「いや……たぶん、もっと最近も、会ってる気がする」
その言葉に、真白の目が揺れた。
彼女は、カップの縁を指でなぞりながら、静かに言った。
「……夢を見たの。
あの時のこと――君が、私の名前を呼ぶ声。
風の中で聞こえて、ふり返ったら君がいて、
“もう、大丈夫だよ”って言ってくれて」
尚人は、ぐっと唇を噛みしめた。
心の奥に、何かがふっと溶けていくような気がした。
「それは、夢じゃなかったよ」
「……うん。そんな気がしてた」
ふたりは、黙って見つめ合った。
長い時間を経てもなお、どこかで繋がっていたことを、言葉にしなくても感じていた。
やがて、真白がそっとポーチを開いた。
中から出てきたのは――あの、銀のペンダント。
「覚えてる? 昔、君が落としたやつ。
ちゃんと返さずに持ってて、ごめんね」
「……それ、君がくれたものだと思ってた」
尚人は、ペンダントを見つめながら言った。
「13年前の春、君は“自分の気持ち”を箱に閉じ込めた。
誰にも言わず、ひとりで全部背負って。
でも、それでも……俺に渡してくれた」
「……尚人くん」
「真白、俺……君が好きだった。
ずっと。
あの頃、何もできなかった自分を、今も許せなかった。
でも、君を助けられた今なら……やっと、言える」
真白の目に、涙がにじんだ。
「私も……同じだったよ。
君の声が、優しさが、
今もずっと、私の中に残ってた。
あの日の春が、私の人生の“境目”だった」
彼女は、ペンダントを尚人の手にそっと置いた。
「これからは、失くさないでね。
……今度は、私が君の隣にいるから」
尚人は、震える指でそれを握りしめた。
(そうだ。今度は――絶対に、手放さない)
ふたりは、そのまま並んでカフェを出た。
外は春の夕暮れ。
桜の花びらが、風に乗って舞い上がっていた。
真白は、空を見上げながら呟いた。
「……13年前、桜が綺麗だったよね。
でも、その春がいちばん嫌いだった。
自分の声が、誰にも届かない気がしてたから」
「でも、届いたよ。
君の言葉が、ちゃんと“未来”に届いてた。
俺は、それを拾いに行ったんだ」
「……ありがとう」
ふたりの手が、そっと触れ合う。
そして、自然に繋がった。
温もりは、13年の時間よりも、もっと確かなものだった。
「尚人くん、これからは何をするの?」
「んー……君と一緒に、“今”を生きる。
それで十分」
真白はくすっと笑った。
「それなら、私も同じかな。
“昔”ばかり見て生きるのは、もう終わりにしたいし」
ふたりは、ゆっくりと歩き出す。
夕暮れの道を、肩を寄せ合いながら。
風が吹くたび、春の記憶が微かに香った。
でも、そこにあったのは“後悔”ではなく、“確かな歩み”だった。
(ありがとう、過去の俺)
(ありがとう、あの春の君)
「いま」ここにいるふたりは、もう、失われることはない。
4月の風は、どこか新しい匂いがした。
あの春の終わりとは違う、確かな“希望”の香りだった。
尚人は、町の図書館にいた。
ここは、13年前の記憶の中で、真白とすれ違った場所でもある。
その日彼女は、誰にも気づかれないように一冊の本を読んでいて、尚人は隣の席に座った。
そして何も話さないまま、ただ同じ時間を過ごしていた。
(今なら、あの時の沈黙が、どれだけ彼女を救っていたか分かる気がする)
今日は、違う。
彼は、約束していた。
そして――扉の音がして、真白が入ってきた。
白いシャツに、薄いベージュのカーディガン。
柔らかく揺れる髪と、まっすぐに向けられる瞳。
「……待った?」
「ううん。来てくれてありがとう」
ふたりは、並んで机に向かい、小さな紙袋を広げた。
中には、小さなフォトフレーム。
そこには、中学生の頃に撮った、ふたりのツーショット写真が入っていた。
「これ、覚えてる?」
「もちろん。……体育祭の時、だよね」
「うん。君が“まぶしそうにしてた”から、
シャッターの瞬間、ちょっとしか笑ってなかったけど……」
尚人は、写真の中の真白の顔を見た。
そこには、たしかに“まぶしさ”に耐えるような顔があった。
でも、今の彼女の笑顔は――その何倍も明るかった。
「……やっぱり、“今”の君のほうが、ずっといい」
「ふふ……それ、褒めてる?」
「もちろん」
尚人はペンダントを胸元から出して見せた。
「これ、ずっと持ってていい?」
「うん。
それ、“君が過去に戻った証”だもんね」
「それだけじゃないよ。
これは――“未来に戻ってきた証”でもある」
真白は、目を伏せて、微笑んだ。
「ねえ、尚人くん。
私たち、これからの時間、どうやって使っていこうか?」
「そうだな……」
尚人は少し考えて、ふわっと笑った。
「君の隣で、“何も起きない日々”をちゃんと大切にするよ」
「何も起きない日々?」
「うん。
事件も、時間の歪みも、消えてしまいそうな恐怖もない日常。
“ふつう”が、どれほど大事か、ようやく分かったから」
「……それ、いいね」
真白は、小さく頷いた。
「私は、きっとこれからも、何度も迷ったり、立ち止まったりすると思う。
でも、君の声があれば、大丈夫な気がする」
「声、だけ?」
「……ううん、手も、ぬくもりも、全部欲しい」
照れたように笑うその顔に、尚人はそっと手を伸ばした。
ふたりの手が、静かに重なる。
まるで、13年の時間の断層を、“いま”がゆっくりと埋めてくれるように。
その夜。
尚人の部屋の机の上には、1冊のノートが置かれていた。
それは、真白が失踪する前に書いていた“最後のノート”。
今では、ページのすべてが、読み返せるものになっていた。
「私は、信じたい。
誰かが、この世界のどこかで、私のことを見つけてくれるって。
そして、笑ってくれるって。
――だから、今日も私はここにいる。
君が笑ってくれる日まで、私は大丈夫。」
尚人はページを閉じ、静かに息を吐いた。
(もう、大丈夫だよ)
言葉には出さなかったけど、心の中で彼女にそう告げた。
数日後。
尚人と真白は、町の川沿いを歩いていた。
桜はもうほとんど散って、地面には薄いピンクの絨毯が敷き詰められていた。
「春、終わっちゃうね」
「うん。でも、来年もまた咲くよ」
「そのときも、君と見られるといいな」
尚人は少しだけ歩を止めた。
「それじゃあ、来年も、その次も……そのまた次も、一緒に見に来ようか」
「……約束、だよ?」
「うん。約束」
ふたりの足音が、並んで重なっていく。
ふたりの笑顔が、春の終わりに静かに溶けていく。
どこにもドラマはなくていい。
どこにも奇跡はいらない。
ただ、こうして、君が笑ってくれたら。
それだけで、人生は“美しい物語”になる。
🌸エピローグ🌸
ある日の真白の日記より――
「君が私を見つけてくれたあの日から、
私は“消えたい自分”じゃなく、“誰かと生きたい自分”を選べた。
いつかすべてが忘れ去られても、
私は、君の声を、ぬくもりを、覚えていると思う。
だってそれは、“春の奇跡”じゃなくて、
“ちゃんと存在した、私の物語”だから。」
-完-
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