登場人物
◆ 小比類巻 圭(こひるいまき・けい)
年齢:50歳
性格:冷静沈着でねちっこく、観察眼に優れたベテラン刑事。人の曖昧な言葉の中に真実を見抜く力を持つ。
◆ 西 正広(にし・まさひろ)
年齢:33歳
性格:テンション高めで、明るく素直なおバカさん。ときどき事件をかき乱すが、意外と本質を突く発言も。
◆ 白鳥 梓(しらとり・あずさ)
性別:女性
年齢:38歳
職業:人気絵本作家
◆ 滝本 真(たきもと・まこと)
性別:男性
年齢:45歳
職業:白鳥の元担当編集者
◆ 相馬 亜紀(そうま・あき)
性別:女性
年齢:29歳
職業:大型書店イベント担当
空想に生きる人
午後九時過ぎ、アトリエの灯りはまだ消えていなかった。
東京都文京区、閑静な住宅街の一角に建つ築四十年のマンション。その最上階の一室に住む絵本作家・白鳥梓は、原稿用紙に鉛筆を走らせていた。色彩豊かなキャラクターたちが戯れる下描きに、かすかに笑みを浮かべながら、時折その輪郭を指でなぞる。
部屋は静かだった。
窓の外に広がるのは、灯りがまばらになった住宅街。遠くで犬の吠える声が、やけに大きく響く。
机の上には、湯気の消えかけたハーブティー、消しゴムのかす、そして、彼女がかつて描いた代表作の絵本が一冊、伏せられていた。
「……ごめんね」
そう呟いた声は、誰に向けたものか。
白鳥はゆっくりと立ち上がると、クローゼットの中からリュックを取り出し、そこに手袋と、封筒、そして少し古びたUSBメモリを滑り込ませた。
まるで、遠足に出かける子供のように無邪気な手つきだったが、その顔にはどこか、決意とも諦めともつかない影があった。
彼女が向かったのは、編集者・滝本真の自宅だった。
かつては心から信頼していた相手。彼の編集で世に送り出した「カエルの王国」シリーズは、シリーズ累計30万部を突破し、一躍“優しさの象徴”と称された。
だが、その関係は少しずつ壊れていった。
「このままじゃ、読者が飽きますよ。次は“お金をなくしたカエル”とか、“いじめにあうカエル”とか、もっと“現実の課題”に寄せた方がいい。夢や優しさだけじゃ、時代はついてこない」
そう滝本は言った。
「私は……現実を描くために、絵本を描いてるわけじゃないのに」
その夜から、彼女の筆は鈍った。
描きたいものではなく、求められるものを書かされる。そんな日々が続いた。
やがて、契約の打ち切り通告。そして、新人作家の売り出しを優先するという宣言。
それは、彼女にとっての“終わり”を告げられた瞬間だった。
鍵は、かつて担当として滝本が彼女に預けていた合鍵。
厳密には“もう返却したことになっている”が、実際には滝本が紛失を申告しており、所在不明のままになっていた。
白鳥は、躊躇うように扉の前に立ち、しばらくその場に佇んだ。
月明かりがドアノブに反射して、彼女の表情を白く照らす。
「ごめんなさい。でも、これだけは……私の手で終わらせたいの」
鍵が音もなく回った。
ドアの内側は、整然としていて、まるで彼女の記憶にある通りだった。滝本が出張中であることも確認済み。侵入は、計画通りだった。
彼女は真っ直ぐに、書斎の棚へと向かう。
そこには、新人作家とのプロジェクト資料、自身の未発表原稿の編集メモ、そして“カエルの王国・新作案”と題されたフォルダがあった。
そのファイルだけをUSBに移し替え、封筒には“未使用の旧作ネーム案”を入れた。
金品や他の資料には一切手を触れない。
リビングにある小さな絵画の前で、彼女は立ち止まる。
それは、彼女がデビュー作のヒット記念に贈った原画だった。今ではホコリを被っていたが、確かに滝本の手で額装されていた。
「最初の頃のあなたは、本当に……応援してくれてた」
そう言いながら、彼女は何も持たずに立ち去ろうとする。
だが、玄関に向かう途中、無意識のうちに絵本『カエルと消えた月』の見本版を手に取っていた。
まるで、子どもがお気に入りのぬいぐるみを抱きしめるように。
午前一時を少し過ぎた頃、白鳥は再びアトリエに戻っていた。
窓を開け、夜風を頬に受けながら、さっき持ち帰った絵本を机の上にそっと置く。
ページをめくりながら、口元に笑みが浮かぶ。
「ねえ、カエルくん。君は、最後にどこへ行ったのかな」
絵本の最後のページには、カエルが月を追って草原を駆けていくイラストが描かれていた。
その先の物語はない。ただ、“続きは読者の心で”と書かれている。
白鳥は、鉛筆を取って、絵本の余白にこう書き加えた。
「カエルは、現実に戻ることにした。」
その筆致は、静かで、優しく、そしてどこか痛々しかった。
こうして、犯行は終わった。
完璧なアリバイと、感情を含まない計画。
だが、どこかに一つだけ、小さな綻びがあった。
それがどこかは、まだ誰にも分からない。
けれど、すぐに――小比類巻圭という“現実の探偵”が、幻想の物語に、静かに足を踏み入れることになる。
翌朝、晴れ渡った空に、カラスの鳴き声が鋭く刺さっていた。
東京都目黒区にある滝本真のマンション。マンション内は静かで、いつも通りの朝が流れていた。だが、その一室だけは、異質な空気を纏っていた。
「……確かに侵入の形跡はあります。ただ、金品には手をつけられていません」
現場検証にあたっていた制服警官が言う。玄関のドアは無傷、窓も破られていない。内部はやや散乱しているが、物色された形跡は限定的。
通報者は滝本の同僚で、仕事のやり取りができないことを不審に思い、連絡を入れたところ、スマートロックの履歴に“使用されていないはずの旧キー”での解錠が記録されていたという。
やがて、静かにエレベーターが開き、ひとりの男が現場に現れた。
無造作に着たスーツ、乱れた髪。薄く笑みを浮かべながら、だがその目だけが異様に鋭い。
「……おはようございます、西くん」
「わっ、小比類巻さん、もう来てたんですね!」
慌てて敬礼をしたのは、捜査一課の巡査部長・西正広。
シャツのボタンがひとつずれていて、小比類巻が静かに指摘する。
「第一発見者は?」
「はいっ、えっと、出版社の営業の人です。昨日、滝本さんが来社予定だったのに来なくて……それで自宅のスマートロックを確認して、あれ?ってなったみたいで」
「スマートロック。便利になったもんですね……ええ」
小比類巻は、玄関から中へと足を踏み入れる。
目を細め、数秒間、何も言わずに室内を見回す。
無造作に開けられた引き出し、棚の一部が傾いている。だが不思議なことに、高価な時計や財布、ノートパソコンなどはそのまま残されている。
「ねえ、西くん」
「はいっ!」
「金目のものを盗る空き巣が、腕時計を二つ無視して、USBメモリだけ持っていくと思いますかね」
「……ひぇっ、た、たしかに!いやでも、最近のUSBって高いですよね?容量とか!」
「でしょうね。でもね、西くん。犯人が欲しかったのは、きっと“モノの価値”じゃない。“中身”でしょうね」
「……中身、ですか?」
「ええ。見た目じゃない。内容ですよ。これは、“誰かの中身”を持っていった事件なんですよ」
小比類巻は、リビングの机に残されたメモ帳を手に取り、筆跡を眺める。そこには、新人作家のプロット案や、スケジュールが殴り書きされていた。
「書類だけを選んで盗む犯人……つまり、“これが何かを知ってる”人間ということです。偶然ここに忍び込んだ泥棒が、この書類の重要性を分かるとは思えません」
彼は指を鳴らしながら、現場を歩く。
そして、ふとスケッチブックに目を留める。
「カエル……ですか?」
そこに描かれていたのは、どこかユーモラスで、どこか切なげな顔のカエルのイラスト。
一目でプロのタッチだと分かる完成度。
小比類巻は眉をひそめると、そっとそのページをめくった。
「この絵、どこかで見たことがある……西くん、このカエル、誰の作品ですか?」
「あっ、それ!子供向け絵本の『カエルの王国』シリーズのキャラっすよ!あの、白鳥梓先生のやつ!姪っ子がめっちゃ好きで……!」
「ほう……絵本作家のキャラクターが、被害者の家に?」
小比類巻は唇の端を少しだけ持ち上げた。
「この人、滝本さんって、絵本の編集者でしたよね?」
「そうですそうです!白鳥先生とも長年コンビ組んでたって聞いたことあります!」
「……でしょうね。これは、偶然じゃありませんよ、西くん」
「ひぇっ……てことは、白鳥先生が犯人ってことですか!?いやでも、有名人がそんなこと……わー……」
「決めつけるのはまだ早いですね。でも、何度も言いますが、犯人は“中身”を知っている人間です」
小比類巻はスケッチブックをそっと戻すと、背を向けて窓際へと歩き出す。
外では、子供たちがランドセルを揺らして歩いている。
明るい朝の光の中を、絵本のような世界が流れていく。
「優しい物語を書く人間が、現実に触れて、壊れてしまうこともある……さて、会いに行きましょうかね」
そう言いながら、小比類巻はゆっくりと部屋を後にした。
現実の探偵が、空想の世界に足を踏み入れる。
その始まりは、カエルの描かれた一枚の紙だった。
最初の出会い
午後三時、都内の大型書店の一角に設けられた特設スペースには、色とりどりの風船とポップが飾られていた。
「ようこそ、白鳥梓先生の“カエルの王国”新作朗読会へ!」
司会者の明るい声が響く中、小さな椅子に座った子どもたちは、興味津々にステージを見つめていた。
その中央に立つのは、ベージュのワンピースに淡い青のスカーフを巻いた女性――白鳥梓。
彼女は、優しく笑みを浮かべながら、自作の絵本を一頁ずつめくり、丁寧に朗読していた。
「……そしてカエルは言いました。『ぼくはここで、待ってるよ。だって、君が帰ってくるって信じてるから』」
その声はまるで春の風のように、そっと心に吹き込んでくる。
聞いていた子どもたちの中には、ぽろりと涙を流す子もいた。
「ええ声ですねぇ……」
隅で立っていた男がぼそりと呟いた。
黒のジャケットに、手に小さな録音機。小比類巻圭である。
彼は朗読が終わるのを待ち、拍手が一通り済んだ頃、スタッフに声をかけて控室への案内を受けた。
控室の扉がノックされ、開かれると、中には水を飲んでいた白鳥がいた。
「あら、どなたでしょう?」
「警視庁の者です。ええ、小比類巻と申します」
「……警察の方?あらまあ、私なにか……?」
白鳥は驚いたように目を丸くしながらも、すぐに穏やかな笑みに戻った。
その自然な表情に、一瞬だけ“プロの女優のような演技力”を感じた小比類巻は、ゆっくりと歩を進める。
「いえいえ。事件のことで直接どうこうというわけではなく、少しだけ、お話を伺えればと思いましてね」
「事件?」
白鳥の笑顔が少しだけ固くなるのを、小比類巻は見逃さない。
「最近、編集者の滝本真さんの自宅が荒らされたという報告がありましてね。金品には手をつけられていなかったが、資料が一部なくなっていた。……先生は、滝本さんとお仕事の関係で、以前深い付き合いがあったと伺っています」
「……そうですね。昔は、とてもお世話になっていました」
「“昔は”、ですか。今は?」
「……もう、違う編集者の方が担当です。方向性が合わなくなっただけです。よくあることですよ、創作の世界では」
白鳥は言葉を選びながら、柔らかい調子を保つ。
だが、小比類巻の目は、その裏側を覗き込むように彼女を見ていた。
「創作の世界……子どもたちに夢を与えるお仕事ですね。ええ」
「……はい、私はいつも、“子どもが安心して眠れるお話”を描くようにしてます」
「でもね、子どもに見せるお話って、“真実”を避けることもありますよね。たとえば、カエルが死んだら困るから、カエルはいつも助かる。……現実では、そうはいかないけれど」
「……それは、絵本ですから」
「でしょうね」
小比類巻は、ポケットから小さなメモ帳を取り出した。
「昨日の朗読会、確かに先生は声を発していらっしゃった。ただ、ひとつだけ気になっているんですよ」
「……何がですか?」
「声は聞こえていた。でも、“姿”が確認できない時間があった。ステージから、先生が一時的にいなくなっていた。正確には、影が途切れていた。ライトの角度で、ね」
白鳥の瞳が、一瞬だけ揺れた。
「……それは、私がちょっと体調を崩して、控室に戻った時間です。録音で乗り切ったのは……そう、そういうことでした。大勢の前で倒れるわけにはいきませんから」
「なるほど。それは理解できます。ええ、別に違法ではありませんし。けれど、“その時間”がね、どうにも事件の発生時刻と重なるんですよ」
「偶然……でしょう?」
「でしょうね。でも、偶然というのは、証明できないから面倒なんですよ」
小比類巻は、メモ帳を閉じ、白鳥に視線を向けた。
「先生。絵本の中では、カエルはいつも“誰かを待ってる”。でも、現実では……“誰も来なかった”こともある。そんな気がしてるんです。今回の絵本のラスト、まだ描き終えていないそうですね?」
「……どうして、そんなことを?」
「編集部の者が言っていました。“先生は最後のページだけ、白紙のままだった”と。どうしてですかね?」
白鳥は、ゆっくりと立ち上がった。
そして、控室の窓の外、夕方の街を見つめながら、静かに答えた。
「まだ……カエルがどこへ行くのか、私自身、分からないんです」
「ええ、でも……現実に戻る道は、もう描かれている気がしますね」
そう言って、小比類巻は一礼すると、扉を開けて出て行った。
白鳥はしばらくその背中を見つめていたが、やがて小さく呟いた。
「優しいお話だけじゃ、足りなかったのかな……」
机の上には、未完成の原稿が一枚だけ置かれていた。
その隣に置かれたカエルのぬいぐるみが、どこか寂しそうに見えた。
翌日、警視庁捜査一課の一角では、朝から西正広が一人で大騒ぎしていた。
「うわーっ!これ見てくださいよ小比類巻さん!この“カエルの王子様”ってやつ!めっちゃ不自然じゃないですか!?ねえ、ほら、ここ!絶対おかしいですよ、これ!」
書類の山を乱しながら、西は興奮気味にタブレットを小比類巻に差し出した。
「……“絵本カエルの王国シリーズ最新刊”……“王子になれなかったカエル”……」
小比類巻は、椅子に座ったまま、半眼で西の持ってきた画面を眺めた。
「先生、今回の作品ではですね、カエルが全然変身しないんですよ!キスされても王子にならない!んで、最後は森に一人で帰ってくの!……これ、ぜってー何かの暗喩っすよね!?あの女、怪しいっす!!」
「“あの女”って……先生を“あの女”って言っちゃダメでしょうね。大人なんですから」
「ぎゃっ、す、すいません……つい……!」
「ええ。で、その“カエルが変身しなかった”件ですが……子ども向けの話としては、なかなか含みがありますね。“変わらなくてもいい”というメッセージにも取れます」
「いやー、でも前作までは、ちゃんとハッピーエンドだったんですよ?“カエルが勇気を出して王子になる話”とか、“友だちを助けて王子になる話”とか。今回だけ、なんか変なんすよ。ラストの森の場面、めっちゃ暗いし!」
西は持ち前の素直さで、全力で訴える。
「ね?ね?で、しかもですよ?先生、前に“物語は現実の延長線”って言ってたじゃないですか。だったら、この物語、きっと現実とリンクしてるはずなんですよ!」
「……“リンク”……ふむ」
小比類巻は、ゆっくりと手元の紅茶に口をつけた。
その目は、すでにどこか遠くを見ている。
「先生の物語は、基本的に“助けられる側のカエル”が、誰かと出会って変化していく……今回、その“誰か”が出てこない……つまり、“誰にも出会わなかった”」
「はい!そうなんですよ!」
「“誰にも出会えなかった物語”……ええ、それはつまり、“先生自身がそうだった”ということかもしれませんね」
「うわ……なんか深いっすね……」
「でしょうね。でも、それはあくまで、物語としてのメタファーです。我々が追っているのは現実の事件。物語の意味づけは……“犯行動機”の裏にある心理の証拠にはなり得る」
「なるほど……」
西は少ししんとした様子になり、机に顎を乗せた。
「……てことは、もしかして、この“カエルが誰にも出会えなかった”っていう展開が、先生の孤独……? いや、なんか……可哀想じゃないですか。子どもたちの人気者なのに」
「“人気者=孤独じゃない”とは限りません。むしろ、人前に立つ者ほど、孤独を強く感じるものですよ。ええ、皮肉なことにね」
「小比類巻さん……って、そういうの分かるタイプなんですか……?」
「ええ、まあ。“西くん”のように素直ではないので、色々と背負うことが多いんでしょうね。人生ってのは」
「うわ……なんか、名言……!」
小比類巻は、机の上に置かれていた昨日の現場写真を手に取った。
その一枚に写る“原画スケッチ”のカエルの目――どこか見覚えがある。
「……これと、最新作のカエルの目……描き方が微妙に違う。以前のカエルは、もう少し力強かったはずです。目の中に、光があった」
「ひぇっ、そこまで見てるんすか!?」
「絵は、言葉よりも嘘をつきませんよ。ええ」
小比類巻は立ち上がった。
「“先生の心”が、今の作品に反映されている。そして、その作品の一部が、事件現場に残されていた」
「ってことは……“事件の断片”も、作品の中に描かれてるかもしれないってことっすか?」
「ええ、正確には、“描いてしまった”んでしょうね。どんなに隠しても、描くという行為は、自分自身をさらけ出すことになりますから」
「うわー……なんか怖いっすね、表現って」
「“優しさの仮面”の下に、本当の顔があるものですよ、西くん。さて……次は、“アリバイ”という名の仮面を、外しに行きましょうかね」
都内のとあるカフェの片隅。
窓際の席で、小比類巻圭はラテを片手に、一枚のコピーをじっと見つめていた。
それは、事件現場――編集者・滝本真の書斎の床に落ちていたスケッチの複写だった。
鉛筆で描かれた、少しふてくされた表情のカエル。
だが、その眼差しにはどこか寂しさと、深い思慮が込められている。
「……やっぱり、これは“物語”じゃない。“心情”ですね」
隣に座る西くんは、ココアを一口すすってから言った。
「えーっと、どういう意味ですか?これって、物語のキャラじゃないんすか?」
「表情ですよ、西くん。従来のシリーズに登場するカエルたちは、いつも“喜び”や“希望”を持って描かれていた。子どもたちの目線に立ってね。だけど、これは違う。……これは、“俯瞰”の目をしている。つまり、大人の視線です」
「はぇぇ~……じゃあ、作者が“自分の感情”を込めちゃったってことですか?」
「ええ。意図せずに、ね」
小比類巻は、描かれたカエルの瞳を指でなぞった。
「問題は、なぜ“これ”が現場に残っていたか、です」
「えっ、それって、落としただけじゃないんすか?」
「でしょうね。でも……“本当に落とした”んでしょうかね?」
西が目をぱちくりさせる。
「この紙一枚だけが、現場の書斎の床に、表向きに落ちていた。あの部屋は整理されていたはずなのに。棚の中を物色していた犯人が、わざわざ“この紙だけ”を取り落とす。しかも、絵がしっかり見えるように」
「うわ……確かに、不自然……」
「このスケッチは、“落とされた”んじゃない。“残された”可能性がある。まるで、“自分の存在を知らせるように”ね」
「ひ、ひぇっ……じゃあ、つまり……」
「“白鳥梓は、自分の痕跡を、無意識に現場に置いていった”ということになります。ええ」
小比類巻の声は静かだが、確信に満ちていた。
「絵を描く人間は、自分の手癖を消せません。筆圧、線の流れ、キャラクターの表情――全部が“証言”になる。これは、絵で語られた犯行の一部です」
「まるで……絵本の“前のページ”みたいですね。まだ子どもたちに読ませる前の、“本当のページ”……」
「うまいことを言いますね、西くん。たまには鋭いね」
「うわーっ!本当に褒められた!?ひゃー!」
「褒めたとは言ってませんけど。ええ」
西はむくれながらも、嬉しそうに頷いている。
その時、小比類巻のスマートフォンが振動した。
画面には、**「小日向出版・デザイン室より連絡」**と表示されている。
「失礼、少し席を外します」
そう言ってカフェの外に出た小比類巻は、電話を繋げる。
「小比類巻です。……はい、はい。なるほど。ええ、そのスケッチですね……。やはり、“原画ではない”? コピーだった……? ええ……ありがとうございます」
彼は電話を切ると、空を見上げてため息をついた。
「コピー……ね」
カフェに戻ると、西がまだスケッチのコピーをじっと見つめていた。
「小比類巻さん、どうでした?何かわかりました?」
「ええ。これ、原画じゃありませんでした。コピーでした。先生のアトリエから流出した可能性が高いそうです。つまり……“わざわざ原画のコピーを現場に持ち込んだ”ということですね」
「……それ、ますます変じゃないですか!だって、なんでそんなことを……?」
「西くん。あなたが“自分の存在を誰かに知らせたい”と思ったら、どうしますか?」
「えっ……メッセージ書きますかね?あ、あとLINE!」
「それができないとしたら?」
「……そしたら……何か、自分の好きなものを置くとか……?」
「でしょうね。好きなもの、よく描くもの、自分らしいもの……絵本作家なら、なおさらですね」
小比類巻は、ふっと笑う。
「“物語の中”には本音を描けても、“現実の中”では言えないことがある。ええ、きっと今回の犯行は、そんな“本音”がにじんでる」
「じゃあ、その絵のカエルが、先生の“本音”ってことですか……?」
「そう考えると、筋が通る。次は、“どこでこのコピーが作られたか”を追いましょうかね。アリバイの裏側に、本当の物語が隠れているかもしれません」
「ひぇ~~……事件って、やっぱ“感情”が大事なんですね……」
「ええ。とてもね。特に、“優しさ”の裏には、深い絶望が潜んでいるものです」
小比類巻は、スケッチを再び手に取り、光に透かした。
線の一本一本から、絵本作家・白鳥梓の心の鼓動が聞こえてくる気がした。
「これが、彼女なりの“叫び”なんでしょうね」
そして、彼はそっと呟いた。
「物語に隠れた現実。それが、彼女の嘘じゃなくて、唯一の真実だったのかもしれませんね」
二度目の接触
午後の光が柔らかく差し込む、白鳥梓のアトリエ。
外の喧騒とは無縁の、絵本の中のような静けさがそこにはあった。
壁にはカラフルな原画が並び、棚にはカエルのぬいぐるみや小物が整然と並ぶ。
一見すると、子どもたちがいつでも遊びに来られそうな、夢と希望に満ちた空間。
だが――その奥には、大人が背負った孤独と葛藤が、そっと息を潜めている。
「ごめんなさいね、こんなところまで来ていただいて。刑事さんがうちに来るなんて、ちょっとドキドキします」
白鳥はハーブティーの入ったカップを差し出しながら、柔らかく笑った。
その仕草に不自然なところはなかった。
ただ、小比類巻はその“自然さ”が、逆に気にかかっていた。
「いえ、こちらこそ。ええ、ちょっとだけ気になったものでね……」
「気になった、というのは?」
小比類巻は、ゆっくりとテーブルの上に一枚の紙を置いた。
「この絵、覚えていらっしゃいますか?」
白鳥は視線を落とす。そこには、あの“現場に残されていたカエルのスケッチ”のコピーがあった。
彼女のまつげがわずかに震えた。
「……ええ、私が描いたものですね。何年か前にラフスケッチとして描いたカエルの表情です。どこで見つけたんですか?」
「ある場所でね。ええ、偶然です。ですが、どうしてこんなに表情が違うんでしょう。“いつものカエル”と」
「……違いますか?」
「ええ、違います。“いつものカエル”は、もっと子どもらしくて素直で、希望に満ちている。でも、これは……まるで、大人の目をしている。“変わることを諦めたカエル”のようにね」
白鳥はふっと笑った。
「……面白い解釈ですね」
「絵は言葉よりも、時に雄弁です。ええ、作者の無意識が滲む。“どんな思いで描いたか”が、そこに宿る」
彼女は、目を伏せてから静かに答えた。
「描いたとき、ちょうど……大切な人と、うまくいかなくなっていたんです。“変わらないこと”を責められて、でも“変わる”ことができなくて。だから――そうですね、諦めの目になったのかもしれません」
「滝本さん、ですか?」
白鳥の目が一瞬、細くなった。
「……その名前、久しぶりに聞きました」
「先日の朗読会の日、先生は途中で控室に戻られていましたね」
「ええ、少し体調が……あの日は、人が多くて、少し息苦しくなってしまって」
「その間、録音で朗読を繋いでいた。そうですよね?」
「……はい。でも、それが何か?」
「その“空白の時間”が、滝本さん宅の侵入時刻と一致しているとしたら?」
「……偶然でしょう」
「でしょうね。でもね、偶然にしては、ちょっと出来すぎている。ええ、“先生がいなくなっていた時間”と“カエルのコピーが残された時間”が、あまりに美しく重なっていて」
白鳥はしばらく無言だった。
そして、再びスケッチを見つめながら呟いた。
「カエルって、実はあまり好きじゃなかったんです。編集部に勧められて描き始めただけで。でも、子どもたちが喜んでくれるから、どんどん愛着が湧いてきて……いつの間にか、“自分”のようになってた」
「“自分のように”?」
「どこにでもいて、誰にも気づかれなくて、でも、気づかれると“ぴょん”と逃げる。……誰かと深く関わるのが怖かったんです、昔から」
「だから、“カエルは王子様にならない”物語を書いたんですね。“変わらなくても、いい”って」
白鳥は、わずかに微笑んだ。
「それが、私の“やさしさ”のつもりでした」
「でも、それが“逃げ”だったとしたら?」
白鳥は黙っていた。
そして、カップの底を見つめながら、言った。
「刑事さん。私、嘘はついてませんよ?」
「ええ、言葉では。ですが――“描いたこと”が、何より雄弁なんです」
小比類巻はそう言い残し、ゆっくりと席を立った。
玄関先で靴を履きながら、彼はふと振り返った。
「カエルは、王子様にはなれなかった。でもね、王子様になろうとした痕跡は、ちゃんと絵の中に残ってましたよ。……ええ、とても切なく、ね」
白鳥は何も言わず、ただ深くお辞儀をした。
ドアが閉まり、小比類巻の足音が遠ざかっていく。
白鳥は一人残された部屋で、そっとスケッチブックを開いた。
カエルの表情は、今の自分とよく似ていた。優しさと、痛みと、そしてほんの少しの罪。
その夜、彼女は新しい原稿の表紙にこう書いた。
「カエルは、今日も静かに笑っていた」
午後一時、都内の書店チェーン「ブックガーデン原宿店」。
新刊絵本の朗読会が開催されたステージを、警視庁の刑事二人が見上げていた。
「うわ~……派手っすねぇここ。子ども向けっていうより、もはやテーマパークじゃないですか」
西正広はきょろきょろと辺りを見渡しながら、小比類巻にぼやいた。
舞台の天井からはカエルの風船が吊るされ、側面の壁には白鳥梓の過去作の表紙が大きく掲げられている。
「“物語の世界”をそのまま現実に持ち込んだ感じですね。ええ、素晴らしい演出だと思います」
「それが逆に、嘘を隠しやすくしちゃった……ってことっすよね?」
「でしょうね。演出というのは、現実から目を逸らさせるための魔法でもありますから」
二人は店内のスタッフルームに案内され、担当者の女性――相馬亜紀と面会した。
「はい、白鳥先生の朗読会ですか?もちろん覚えてます。すごい盛況でしたよ!」
彼女はイベント担当らしく、はきはきとした口調で応じた。
机の上にはイベント当日のタイムテーブルと、記録用のタブレットが置かれていた。
「小さなお子さんもたくさん来てくださって……朗読中は撮影禁止だったんですが、運営用に記録は残してあります」
「確認してもよろしいですか?その録画」
「ええ、もちろん。こちらです」
相馬が再生ボタンを押すと、映像には満員の会場、そしてステージ上で朗読をする白鳥梓の姿が映し出された。
その声は確かに彼女のもので、抑揚をつけながらページをめくる様子が映っている。
「ここまでは間違いなく“本人”ですね。声も、姿も一致してます」
小比類巻が呟くように言った。
だが、時間が進むにつれて、映像の中の白鳥がステージの陰に消え、その直後から“声だけ”が響き続ける場面に切り替わった。
「……おや」
「先生、ここでちょっと控室に戻られてたんですよ。“録音”でつないでくださってたんですけど……」
「理由は?」
「過呼吸っぽくなっちゃって。控室でしばらく休んでたそうです。でも、録音の方が“本番と同じくらい温かい声だ”って、子どもたちから評判だったんです」
「録音の再生操作は誰が?」
「スタッフが機材でやりました。ただ、再生ボタンは“先生が控室に入った後”、時間を見て私が押しました」
「……そのとき、先生の姿は?」
「えっと……私自身は見てないです。機材の方が“もう控室入りました”って言ってたので……」
「なるほど。“確認していない”と。つまり、声が流れていた間、誰も“先生の姿”を確認していなかったわけですね」
相馬の表情が曇った。
「……そう言われると、確かに……」
「先生が控室に入った“ように見えた”、録音が流れた、“ように聞こえた”……でも、その時間、本当に“そこにいたかどうか”は、確認されていない」
「そ、そんな……でも、控室の前に置いた私物とか……椅子に座ってた痕跡とか……」
「それも、後から置かれた可能性は排除できません。ええ、“朗読の時間帯”に彼女が不在だったとしたら、犯行は十分に可能だった」
小比類巻の言葉に、相馬はハッとした顔をした。
「……あの、そういえば……先生、控室に戻ったあと、しばらくして帰ってきたんですけど、髪が少し濡れていたんです。汗……って感じじゃなくて、なんというか、濡らしたような……」
「汗ではなかった?」
「はい。メイクも少しだけ崩れてて……あ、でもお水で冷やしたのかもって、その時は……」
「それは“誰にも見られていない時間”に、先生がどこかへ出ていた可能性を示唆します。ええ、“物語の外”へね」
小比類巻は相馬に礼を告げると、西を連れてステージ裏の控室へと足を運んだ。
控室は、ごく普通の小部屋だった。
白いソファ、テーブル、鏡台、控えめな照明――簡素だが居心地の良い空間。
だが、小比類巻はその構造に注目していた。
「西くん、この部屋、どこにも“窓”がないですね」
「たしかに……外の空気が入ってくる感じないっすね」
「そのわりに、“控室を出た先生の髪が濡れていた”という証言。外に出た痕跡がある。……つまり、“控室を通らずに出入りできる経路”があるか、あるいは、控室には“いなかった”可能性が高い」
小比類巻は部屋をぐるりと歩き、空調の位置や非常口の案内を確認していた。
「この部屋に、確かに“白鳥梓がいた”と証明する物は、どこにもない。“いたように見せかけること”はできるが、“いたことを証明する”ものが、ない」
「ひぇ……じゃあ、録音を流してる間に、先生は……」
「ええ。事件現場に行くには、十分な時間がありました。“会場を抜け出し”、“鍵を使って侵入し”、“書類を奪って”……そして、再びここに戻った。録音という魔法の裏で、現実は動いていた」
西は震える指でメモを取るふりをしていたが、内心は真っ白だった。
「小比類巻さん……アリバイって、“完璧に見えるほど嘘っぽくなる”んですね」
「ええ、“完璧”というのは、“誰かに見せるための顔”ですから。真実は、いつも少しだけズレてるんです。ええ、まるで絵本の中のカエルみたいに、ね」
西くんのひらめき
その日、小比類巻と西くんは、調査の帰りに喫茶店に立ち寄っていた。
喫茶アカシア。昭和風の内装とカウンターの木の香りが落ち着く、二人のお気に入りの店である。
「はー……甘いもん食べないと、脳みそ動かないっすね……!」
西が目を輝かせながらプリン・ア・ラ・モードをすくい上げると、小比類巻は、口元にカップを運びながら呟いた。
「“事件は動いたようで、動いていない”。ええ、そんな感覚ですね……」
「え?どゆことっすか?」
「動いているのは、あくまで“こちらの視点”。犯人側は既に完了している。問題は、“完了した犯行”に対して、我々が“どの視点で”それを再構築するかということですよ。……要は、“どこに犯人の意図がにじんだか”」
「うわ、急にむずい……プリンで思考止まりました……」
「西くん、“止まってる思考”を動かすのに、甘いものが必要なら、ずっと止めておいてもいいかもしれませんね」
「ぎゃーっ!それ地味に刺さります!」
そんなやりとりの中、ふと小比類巻の目が止まった。
西がスマホで見ていた動画、子ども向け番組のワンシーンだった。
「おい西くん、今それ、何を見ていた?」
「え、ああ、これっすか?この前の白鳥先生の朗読会の動画!子ども向けの録音のやつが公式にアップされてて、ちょっと気になって!」
「……再生、少し戻してもらえますかね」
「へ?あ、はいはい。えーっと……」
西が動画を指で戻し、ステージで白鳥の声が響くシーンに戻した。
「みんな、こんにちは。今日は“カエルの王子様”の新しいお話を持ってきました。楽しみにしててね――」
「……止めてください」
「ひぇっ、な、何かありました!?」
「その“こんにちは”のあと、先生は“楽しみにしててね”と言った。“楽しみにしててね”。」
小比類巻は動画の音量を上げて、イヤホンを片耳に差し込む。
「ええ、確かに、同じセリフだ……でも、“声の質”が違う。“こんにちは”は、生の声。“楽しみにしててね”は、録音された声です。わかりますか?」
「うわ……まじか、すご……まさか、前半だけ本人だった!?」
「そうです。“録音が切り替わる瞬間”が、動画内にある。……でも、西くん、もう一つ問題がある」
「へ?」
「この録音、どこで収録されたものだと思います?」
「え?そりゃ、先生のアトリエとか……」
「でしょうね。でも、それは問題です。なぜなら、“録音された音声”には、“生活音”が一切ない。“室内の反響音”すら、抑えられている。つまり、“プロの録音スタジオ”で録った可能性が高い」
「えー!じゃあ、犯行の準備って、もっと前から……?」
「ええ。少なくとも、“事件の数日前”には、録音しておく必要がある。つまり、“計画性があった”という証拠になります。……偶然ではない」
小比類巻は、自分のノートを開いた。
「犯行は衝動的なものではなかった。録音の準備、控室の動線、アリバイの形成、鍵の使用……すべて、予め仕組まれていた」
「ひぇ……あの先生、あんな柔らかそうなのに……」
「表現者ほど、静かに“決断”を下します。自分の手で“物語の結末”を選ぶために、ね」
小比類巻はふっと視線を落とし、ポケットから取り出したスケッチのコピーをそっとテーブルに広げた。
「このカエルは、もう王子になることを諦めていた。でも……同時に、“自分で物語の終わりを書こう”としていた。だから、犯行に出た。“自分でページを閉じる”ためにね」
「なんか、切ない……」
「ええ、そうですね。感情というのは、物語の芯です。犯行の芯にもなります」
そして小比類巻は、静かに言った。
「西くん。君が“動画で公式アップされてる”と教えてくれたおかげで、犯行のタイムラインが決定的にズレました。“録音と生の切り替え”が、アリバイの崩壊点になる。……ありがとう、西くん」
「わあっ!?ホントに褒めてる!?すげえ、今日二回目っす!」
「調子に乗らないでください。ええ」
西が盛大にこぼしたプリンを拭き取りながら、小比類巻はふと目を細める。
「“声”は、嘘をつく。だけど、“沈黙”は、真実を語るんですよ。今、ようやく“沈黙の意味”が見えてきた気がします」
秋も深まり、午後五時にはすでに街に夕闇が落ち始めていた。
そんな中、小比類巻はふたたび白鳥梓のアトリエを訪れていた。
玄関を開けた白鳥は、前回よりも少しだけ疲れた顔をしていた。
「……あら、また。そんなに私は、容疑者っぽいですか?」
「いえいえ、そういうわけでは。ええ、ただ、“気になること”が、ありましてね」
小比類巻は軽く帽子を取り、静かにアトリエの中に入った。
前回と変わらぬ、整然とした室内――だが、壁のイラストの一枚が入れ替わっていることに彼はすぐ気づいた。
「“カエルと消えた月”、抜けてますね。ええ、以前はこの位置にあったはず」
「……よく見てますね。あれは、気分で入れ替えただけです」
「絵本のキャラクターは、作者の分身ですから。きっと今の先生には、“月を追うカエル”の気分じゃなかったのでしょうね」
白鳥は微笑んだが、返事をしなかった。
小比類巻は持参したタブレットを取り出し、書店イベントの録画の一部を再生した。
「先生。これ、ご覧になっていただけますか。“朗読の途中”、先生の“声”が“録音に切り替わった瞬間”です」
白鳥は表情を変えずに頷いた。
「ええ、体調が優れなかったので、控室で休ませてもらいました。その間、録音を使わせていただいて……」
「ええ。録音自体は問題ありません。けれど――問題は“沈黙”です」
「……沈黙、ですか?」
小比類巻は、タブレットの再生バーを一時停止させた。
そのタイムスタンプは午後3時17分から3時18分のわずか40秒。
「“録音に切り替わる瞬間”――この40秒間、マイクは“ノイズも含めて完全な無音”でした。会場の子どもたちの声すら、一切記録されていない」
「それは……録音の設定の問題では?」
「でしょうね。ですが、この会場のスピーカーは、環境音をマイクで拾って増幅する仕様です。つまり、“マイクが切れていた時間”が存在する。録音の再生が、40秒間、空白だったんです」
白鳥の顔がわずかに引き締まった。
「そしてこの40秒、“ちょうど”事件現場のスマートロックが作動した時間と一致しています」
小比類巻は、言葉を間延びさせることなく、静かに、正確に言い切った。
「この“無音の40秒”が、先生のアリバイにとって最大の敵です。録音と映像が連続しているように見せかけて、実際には“記録されていない時間”がある」
「……たった40秒で、何ができるっていうんです?」
「鍵を使って扉を開け、侵入し、室内に入る。ええ、それくらいなら十分でしょう。“実行”はその後でも可能です。問題は、“その時間、どこにいたか”です。先生の姿は、誰にも確認されていない」
白鳥は口を閉ざしたまま、手元のティーカップを両手で包み込んだ。
その手が、かすかに震えているようにも見えた。
「先生、“沈黙”って、何かを語らないことと同時に、何かを“語ってしまう”ことでもあります。“声がない”ということは、“存在しなかった”という証明にもなり得る。ええ、皮肉なことに」
「……あなた、いつもそんな風に、人の心を探るんですか?」
「ええ、そうですね。人の言葉より、“沈黙”の方が雄弁なことも多いので。特に、“描く人間”の沈黙には、強い意味がある」
白鳥は、目を伏せて言った。
「……私の絵、本当は、誰かに見つけてほしかったんです。けれど、ただ“罪を告白”することだけはできなかった。だから、絵にしました。……絵本作家として、それが私の限界でした」
「ええ、拝見しました。“王子になれなかったカエル”。変わらずにいたことを、選んだ者の物語。“変わる勇気”を失った人の結末」
小比類巻は、椅子から立ち上がった。
「先生、“沈黙”は、物語の中の“間”です。“語られなかった部分”が、一番の真実を語る。私は、その“間”に注目しているだけです。ええ、今回の事件の真相も、“語られなかった40秒”の中にあると思ってます」
白鳥は黙っていた。
そのまま視線を机の上に落とし、口元だけがかすかに笑っていた。
「“沈黙の中の叫び”……それに、気づかれたのは初めてかもしれません」
「でしょうね。誰も、沈黙の“奥”まで見ないものですから」
小比類巻は軽く礼をして、静かにドアを開けた。
夕暮れの光が、彼の背に伸びていた。
三度目の面会
秋の風が冷たさを帯びてきた午後、小比類巻は三度目となる白鳥梓のアトリエを訪れた。
二人の距離は、すでに“他人の礼儀”を超えた何かに近づきつつあった。
それは親密さではなく、真実を共有してしまった者同士の間に流れる、沈黙に似た了解だった。
ドアを開けた白鳥は、もう驚きもせず、小さく頭を下げただけで彼を通した。
「お変わりありませんか?」
「……あまり、眠れていません」
「ええ、でしょうね。心に“まだ描いていないもの”があると、人は眠れないものです。描く人間なら、特にね」
アトリエには、これまでになく紙が散らかっていた。
スケッチブックには途中で止まった線、塗りかけの色、言葉の欠片が無数にある。
完成された作品は、一つもない。
「描けないんです。“あの夜”から、ずっと。何を描こうとしても、手が止まってしまう。ペンが、線を拒むように」
「……きっと、先生は“自分の物語の続きを描く資格がない”と、思っているんでしょうね」
白鳥は顔を上げた。
「……どうして、そんなに私の気持ちが分かるんですか?」
「わかりませんよ。ええ、私には物語を描く力も、子どもを笑顔にする声もない。ただ――私は、“物語を描く人間が、現実に背を向ける瞬間”を、何度も見てきましたから」
小比類巻は静かにアトリエを歩き、壁に貼られた原画の一枚の前で立ち止まった。
そこに描かれていたのは、一匹のカエルが、森の中の切り株に腰かけて空を見上げている絵。
その背中は小さく、空の青はどこまでも深い。
セリフはない。ただ、視線だけが、どこか遠くを追いかけている。
「“王子になれなかったカエル”……結局、変わることを選ばず、物語の中で座り込んでしまったんですね」
「……それが、今の私に描ける“やさしさ”だったんです」
「やさしさ、ですか。“誰も傷つけないための物語”……でも、それは“誰にも近づかない物語”でもありますよ」
「……違います。違います。私は、ただ――」
白鳥の声が、かすかに震えた。
「私は、誰かを傷つけたくなかったんです。子どもにも、大人にも。だから、あの人に言われても……『現実を描け』って言われても、どうしても……描けなかった。怖かったんです」
「現実を描いたら、“本当の自分”が見えてしまうから、ですか?」
白鳥は、肩を落としたまま、力なく頷いた。
「滝本さんは、私の絵から“やさしさ”を取り上げようとしました。数字のために、時代の流れのために……
彼は“善意の編集者”だった。でも、それが、私には一番苦しかった。
“あなたのためだ”と笑いながら、“私の居場所”を削っていくようで……」
「そして先生は、“物語の世界”に逃げた。“現実”ではなく、“物語の中”でしか、自分を守れなかった」
白鳥の目から、静かに涙がこぼれた。
「ええ……そうです。“物語の中”では、私は誰にも否定されない。だから――」
「だから、その世界を壊されそうになった時、先生は、黙って見ていられなかった」
小比類巻は一歩、白鳥に近づいた。
「先生。人は、自分の世界を守るために、どこまでのことをすると思いますか?」
白鳥は答えなかった。
ただ、指先でテーブルの端を撫でながら、ふと小さく口を開いた。
「……誰も、奪おうとなんかしていなかったのかもしれません。
でも、私には、そう見えたんです。全部が、怖くて、歪んで見えた。
滝本さんの言葉も、優しさも……全部、私を壊すナイフみたいに感じてた」
「人は、時として、善意にすら傷つくものです。ええ、善意は時に、暴力より残酷ですから」
白鳥はふっと笑った。悲しく、穏やかに。
「あなた、本当に警察の人なんですか?」
「ええ、一応。“心の余白”を読むのが、仕事みたいなものでしてね」
「ずるい人ですね。あなたに話すと、言葉が全部、物語に変わっていく気がする」
「でしょうね。……でも、物語の続きを描けるのは、先生しかいませんよ。私は、“語られなかったページ”を探しているだけですから」
小比類巻は、帽子を取り、ゆっくりと玄関に向かった。
背後で白鳥の声が、そっと囁くように響いた。
「……もし私が、物語の続きを描けたなら――“本当の結末”も、描けるんでしょうか」
「ええ、描けますよ。ですが、先生。次のページには、もう“嘘”は描けません。……現実が、ペンを握っていますから」
そして、小比類巻は扉を閉めた。
冷たい風がアトリエの中にそっと入り込み、紙を一枚、ふわりとめくった。
未完成の絵の中で、カエルは再び遠くの空を見上げていた。
小比類巻が再び小日向出版の資料室を訪れたのは、薄曇りの午後だった。
社屋の一角にあるその部屋は、編集者たちの過去と未来が無数に積まれた静かな図書館のようだった。
彼の指は、棚の中から目的の名前を探し、慎重に背表紙を引き抜いた。
『カエルとナマズの先生』
白鳥梓が三年前に発表した、比較的“地味”な部類に入る作品だ。
売れ行きこそ悪くはなかったが、シリーズ中では話題性に乏しいと言われ、あまり取り上げられることのない一冊だった。
小比類巻は机に腰掛け、ゆっくりとページをめくる。
その目の動きは、“絵本を読む”というより、“証拠品を調べる”に近かった。
物語は、こう始まる。
“ある日、小さなカエルは、自分の声が小さいことに気がついた。
大きな声で歌えたら、もっと友だちができるかもしれない。
そう思ったカエルは、“ナマズの先生”のもとを訪ねた。”
“ナマズの先生”は、泥の中に住み、物静かで、だが言葉に厳しい生き物として描かれていた。
どのページにも、ナマズの目は正面を向いていない。
常に、どこか斜め下を見ている――まるで、“相手を見て話すことを避けている”かのように。
小比類巻は、ページをめくる手を止めた。
“ナマズの先生は、こう言った。
『カエルくん、お前には無理だよ。もっと泥に潜る覚悟がいる。
星ばかり見てるお前に、歌は届かない』”
「……この言葉、“編集者”の声ですね。ええ」
小比類巻は独り言のように呟いた。
言葉選び、構図、キャラクターの関係性。
それらすべてが、現実の“滝本真”と白鳥梓の過去を、象徴化して物語に落とし込んだ形になっていた。
“カエル”は、小さな声で夢を語る存在。
“ナマズ”は、それを現実で押しつぶす存在。
物語の中でカエルは成長することをやめ、ナマズに別れを告げる。
“ありがとう、ナマズ先生。
でもぼく、星を見ていたいから、歌は歌えなくてもいいや。”
最後のページで、カエルは空に向かってジャンプしている。
背景には、小さく霞んだナマズの影――その輪郭が、どこか人間のようにも見える。
小比類巻は、その影の顔に目を凝らした。
「この鼻の形、頬の線……先生、あなた、これを無意識で描いたとは思えませんよ。ええ、これは……」
彼はポケットから、以前回収した滝本真の名刺を取り出した。
そこにある、滝本の証明写真――整った顔立ちだが、笑わない目元と、薄い唇。
小比類巻は二つの画像を並べ、静かに頷いた。
「ナマズ先生は、確かにあなたですね。……物語に描かれた“仮面”。“否定する者”としてのあなたの姿だ」
その夜、小比類巻は自宅で白鳥梓の他の作品にも目を通していた。
あるパターンに気づいたのは、3冊目の中頃だった。
どの作品でも、“主人公の障害となるキャラクター”は、一貫して目を逸らしている。
正面を向かない。感情を向けない。“目を合わせる”という基本的な対話を放棄している存在として描かれている。
だが、最新作『王子になれなかったカエル』では、そのパターンが崩れていた。
最後に登場する、“自分を見捨てて去っていく誰か”の目は――しっかりとカエルを見ている。
小比類巻はページをめくる手を止めた。
「……“見つめること”を許したということは、“もう、切り離せなかった”ということだ」
白鳥梓は、現実を描くことに抗い続けてきた。
だが、最終的に彼女は物語の中で滝本を“見てしまった”。
否定しようとした存在を、認めてしまった。
そしてその瞬間、彼女は――
“物語の世界だけでは、足りなくなった”。
「先生……あなたは、“ナマズ”を物語から追い出しても、心の中からは追い出せなかったんですね。
だから、現実に手を伸ばした。“描くだけでは終われなかった”……」
彼はそっと絵本を閉じた。
「そして、現実に触れた瞬間、あなたの物語は……静かに崩れてしまった」
午後の光が陰り始めた頃、小比類巻と西は、再び原宿の路地裏に立っていた。
そこは、表通りからほんの少し奥まった場所。
左右に並ぶ建物の間には、人ひとりがやっと通れるほどの通用路が伸びていた。
「西くん、ここを見てください。“ブックガーデン原宿店”の搬入口です」
「うわ……表側とぜんぜん雰囲気違いますね。ここ、イベント会場とつながってるんですか?」
「ええ。2階の控室の真下、荷物用のエレベーターがある。そこを使えば、関係者は表を通らず裏から出入りできる。……そして、注目すべきは――」
小比類巻は、細い通用路の反対側を指差した。
「……“滝本真の住んでいたマンション”が、まさにこの裏口から数メートルの位置にある、ということです」
「えっ!?まじっすか!?近っ……」
「隣の建物ですよ。正確には“建物と建物の隙間”を通って、約10メートル。
しかも、滝本さんの部屋はマンションの2階。裏口から階段を使えば――」
「……ってことは、“往復でも40秒以内”……?」
「ええ。“鍵さえあれば”、という前提つきですがね」
西は慌ててメモを取り出しながら、声を上ずらせた。
「じゃ、じゃあ、“朗読会の途中で流した録音”の間に、先生はここから抜けて……?」
「ええ、搬入口から出て、滝本さん宅へ。
スマートロックを合鍵で解除し、部屋に入り、目的のデータを奪い……戻ってくる。
その間にかかる時間は、“おおよそ40秒”。
“沈黙の40秒”と、まさにぴたりと重なります」
「ひぇえぇ……ぴったり過ぎて怖い……でも、なんでそんな場所に滝本さん住んでたんですか?」
「それも、皮肉なめぐり合わせですよ。
滝本さんは“出版社のイベントとの連携を重視する”編集者でしたからね。
『書店や著者とすぐ会えるように』という理由で、このマンションを選んだんです。
白鳥先生と距離をとったあとも、ここに住み続けていた。
つまり――“彼女の声が、最も大きく聞こえる場所”に、彼は居続けたわけです」
「うわ……それって、“近すぎた”ってことっすよね……」
「ええ。“声が届く距離”にいたのに、話はできなかった。
それは、どちらにとっても、拷問のような時間だったでしょうね」
そう言って小比類巻は、小道を歩きながら、イベント会場の裏手をぐるりと見回した。
書店の搬入口は、倉庫のような簡素な構造だった。
出入りするスタッフの姿はなく、人通りもまばら。
静かすぎるほどの場所。
「……この道を、先生は何度も確認していたそうです。“舞台裏を見せてください”とスタッフに頼んでね」
「つまり、“逃げ道”の下見っすね……」
「違います。“物語の外に出る道”ですよ、西くん。
この道を通って、彼女は“朗読会の物語”から抜け出した。
そして、“現実という物語”に、ほんの一瞬だけ、足を踏み入れた」
場面は店内へと移る。
イベント担当の相馬亜紀が、控室の隣にある資料室で二人を迎えた。
「すみません、お忙しいところ……今日は何を?」
「ええ、先生の朗読会当日の控室での様子について、改めて伺いたいと思いまして」
小比類巻が丁寧に頭を下げると、相馬は一瞬戸惑いながらも頷いた。
「……じつは、少し気になっていたことがあるんです。
先生、控室に入る前に私にこう聞いたんです」
「この部屋、窓はありませんよね?」
「“ありません”と答えたら、少し間を置いて、こう言ったんです。
『……じゃあ、風はどこから来るんでしょうね?』って」
小比類巻の目が鋭く光る。
「風、ですか」
「ええ。私、その時は意味がわからなかったんですが……あとで思い返したら、確かに、
先生が控室から戻ってきたとき、“髪がふわっと動いてた”んです。
まるで、外から風を連れてきたみたいに」
西が小声でつぶやく。
「……そ、それって……“戻ってきた直後”ってことじゃ……」
「ええ、録音が流れていた時間帯と重なりますね。
つまり、“先生が控室にいた”という証拠は、どこにもなかった。
録音が流れているだけで、スタッフは皆“そこにいるはず”だと思い込んでいた」
「でも、実際には先生は……“控室を出ていた”」
「“沈黙の40秒”は、“出入り”の時間だった。
録音を操作する人間と、先生自身が別々だったことが、逆に彼女に“完全な自由”を与えていた」
小比類巻は静かに言った。
「スタッフの信頼、録音の準備、下見の入念さ、そして何より――この立地。
あまりに都合が良すぎる……でも、偶然ではない。
これは、“何度も構想され、下書きされた物語”です。
先生は、“完璧なアリバイという物語”を、事前に書いていたんです」
「でも、最後のページは……“風”に破られた」
「ええ、“物語には描かれていない風”が、真実を教えてくれました」
二人が書店を出る頃には、陽はすっかり傾いていた。
小比類巻は、再びあの通用路を見下ろす。
誰も見ていなかった40秒。
声は残っていたが、体は消えていた時間。
そこには、音もなく吹き抜ける風があるだけだった。
四度目の対面
その日、空は静かに曇っていた。
雨が降るでもなく、陽が差すでもなく。
まるで、何かが終わり、そして何かが始まる日を、空自体が受け止めているようだった。
小比類巻が白鳥梓のアトリエに足を踏み入れるのは、これで四度目だった。
ドアを開けた白鳥は、前回とは違う、どこか覚悟を含んだ顔をしていた。
眉間に力はないが、眼差しが濁っていない。
「……きっと、来ると思っていました」
「ええ、私も来るしかないと思っていました。先生」
室内は、整っていた。
けれど、机の上には、一枚の紙が裏返しに置かれている。
「描けましたか?」
「……描けました。まだ完成じゃないけれど、“線”は乗った気がします」
小比類巻は、それに手を伸ばさず、代わりに持参してきた資料を机に置いた。
『ブックガーデン原宿店 搬入口ルート図』
『滝本真宅との直線距離計測』
『録音再生時間と控室記録』
そして――『カエルとナマズの先生』の一節が印刷された紙。
「先生。この数日で、私は“あなたが描かなかったもの”を、いくつも見ました」
白鳥は何も言わなかった。
ただ、小比類巻が語るのを待っていた。
「“沈黙の40秒”。
その時間に、あなたはイベント会場から消えていました。
録音が流れていたことに、誰も疑いはなかった。
でも、あの控室には“風”が吹いた。
窓のない部屋に、“外気”が入った。
それは、“外に出た人間が戻ってきた”以外、説明がつかない現象です」
「…………」
「あなたは、下見の際に搬入口の構造を確認し、
朗読会当日はその裏手から滝本さんの住むマンションに向かった。
彼の部屋の裏口までは、わずか10メートル。
鍵は、かつて信頼されていたあなたなら、簡単に用意できたでしょう」
白鳥は、目を伏せたまま、手を静かに組んだ。
「そこまでして、あなたは“彼のPCから、自分の原稿データを消した”。
そのとき、あなたが守りたかったのは、“声”だったはずです。
滝本さんが書き換えようとしていた、“やさしさ”に満ちた物語。
あなたが、子どもたちに届けようとしていた、“変わらなくてもいい”というメッセージ。
それが、数字や時流のために壊されそうになっていた」
白鳥はそっと呟いた。
「彼は、“いい人”だったんです。
正義感があって、誠実で。
でも……その“正しさ”が、私にとっては、凶器みたいに感じられた」
小比類巻は、頷く。
「あなたの絵本、“カエルとナマズの先生”――
あれは、あなたが滝本さんに向けた手紙のようなものでしたね。
カエルは星を見ていたい。
でも、ナマズは泥の中で現実を教えようとする。
あなたは、その言葉を“物語の中”に閉じ込めた。
現実では言えなかったから」
白鳥の目に、わずかに光が差す。
「……あの物語を書いたあと、私は少しだけ、自由になれた気がしたんです。
でも……それでも、滝本さんは変わらなかった。
私の描いた“ナマズ”が、現実には消えてくれなかった」
小比類巻は、静かに言った。
「だから、現実から手を伸ばしてしまった。
“声を守る”ために。
“自分のやさしさ”を、誰にも奪われないために」
「ええ……でも、その瞬間に、私は“やさしい人間”じゃなくなっていた」
「いいえ、先生。
“やさしさ”の形は、時に人を誤らせます。
あなたは、“物語という逃げ場”を使っていたけれど、
それは同時に、“誰にも届かない場所”でもあった。
だからあなたは、“一度だけ、現実に触れた”。
……その代償として、声は届いたけれど――罪も残った」
白鳥は、しばらく黙っていた。
やがて、机の上の紙を裏返す。
そこには、描きかけの絵――
カエルの隣に立つ、誰かの姿があった。
それは、以前の“ナマズ”とは違った。
人間にも見えるし、影にも見える。
ただひとつ確かなのは、その人物が“カエルを見ていた”ということ。
“最初から、見ていたよ”
そんなセリフが、吹き出しのないページに、小さく書かれていた。
「滝本さんは、私の“本当の声”を、一度も聞いてくれなかった。
でも、最後の最後で、私が何をしようとしていたか……
彼はたぶん、気づいていた気がするんです」
小比類巻はその絵に目を落とし、静かに頷いた。
「物語は、閉じましたね。
けれど、“描き直すこと”はできます。
今度こそ、“誰かと共にある物語”として、描いてください。
それが、罪を償う方法でもありますから。ええ、先生」
白鳥梓は、涙をこぼすでもなく、深く、深く、頭を下げた。
「……ありがとうございました。
私の“声”を、見つけてくださって」
そして小比類巻は、静かにその場を立ち去った。
アトリエの扉の向こうには、やはり風が吹いていた。
今度の風は、冷たさではなく、どこか物語の余白をめくるような、優しい風だった。
取調室の中は、静かだった。
白い机、壁に掛けられた時計、録音用のマイク。
そのどれもが、日常から切り離されたように無機質で、やけに音を吸い込んでいくようだった。
椅子に腰かける白鳥梓は、拘束されてもいなければ、取り乱してもいなかった。
彼女の姿は、まるで子どもに読み聞かせをする前の“静けさ”をまとっていた。
彼女の前には、取調官と記録係がいた。
西もそこにはいなかった。
そして、小比類巻の姿もない。
だが、彼女は彼の存在を強く感じていた。
あの静かな声が、心の奥で問いかけてくる。
「“あなたの物語”を、聞かせてくれませんか?」
静かにうなずくように、白鳥は口を開いた。
「滝本さんとは……最初は、とてもいい関係だったんです。
私の作品を最初に信じてくれたのも、出版まで持っていってくれたのも、彼でした」
彼女の声は、マイクの向こうで震えずに記録されていく。
「でも、売れるにつれて、彼の言葉が変わっていきました。
“もっと泣ける話にしましょう”とか、“社会性を加えましょう”とか……
それって、私の“やさしさ”を削っていく作業に感じられたんです」
「彼が悪いわけじゃなかった。
彼は“数字”を背負っていました。
私は“子ども”を背負っていました。
だけど……その二つが、だんだん重ならなくなっていったんです」
一息置いて、彼女は続けた。
「彼は、“変わることが大事だ”って、いつも言っていました。
私にも、“物語にも進化が必要だ”と。
でも、私は“変わらないままでいてほしい”って、心から願っていたんです。
だって――子どもたちの前では、世界くらい、優しくあってほしかったから」
「ある日、滝本さんは、私の新作の原稿を勝手に書き換えました。
“王子様にならなかったカエル”の物語を、“王子様になれなかったカエル”に。
……微妙な違いに見えて、大きな違いでした」
“なれなかった”は、失敗の話。
“ならなかった”は、選択の話。
「私は、選択を描きたかったんです。
変わらなくても愛される世界を、描きたかった。
でも、彼の修正は……“変わらないことは、間違い”だって言っているように思えた」
「私は……彼の編集部のPCにあった原稿データを削除しました。
自分の声を、守るために。
私の“静かな抵抗”でした」
「でも、今になって思います。
私は、“子どもたちのため”だなんて言いながら、
結局は、自分が否定されるのが怖かっただけなんです。
“やさしいままでいていい”と、誰かに言ってほしかった。
……それを、彼に、言ってほしかった」
彼女は、言葉を止め、手元を見つめた。
「小比類巻さんは、言いました。
“現実に触れた瞬間、物語は崩れる”。
でも、“そこからしか、本当の物語は始まらない”とも言ってくれました」
「罪は、あります。
でも、私はようやく、“自分の本当の物語”に向き合えた気がするんです。
あの日、彼の部屋に忍び込んだ私は、
物語を書いたのでも、編集をしたのでもなく――ただ、“叫んだ”んです」
「『お願いだから、聞いて』って」
彼女の目には、涙が浮かんでいなかった。
けれど、長い沈黙のあと、その声は、ほんの少しだけ揺れた。
「私は、間違えました。
でも、私は“やさしさ”が間違いだったとは、思いたくありません。
だから、いつか……
もう一度、“誰かと一緒にいるカエルの話”を描きたいと思っています」
「そのとき、きっと、私は物語じゃなくて、現実を信じているはずですから」
録音機が止まり、記録用のペンが最後の文字を書き終えたとき、
部屋の中には、静かな風が流れていた。
どこからともなく、それは入ってきた。
窓も、扉も閉まっているのに。
きっと、それは――“声の風”だった。
秋が深まっていた。
街路樹はすっかり色づき、歩道にはカサカサと音を立てる落ち葉。
通りすぎる親子連れ、夕方の帰宅ラッシュ、犬の散歩。
それらすべてが、静かに、ゆっくりと、日常へと戻っていた。
警視庁の一角、資料室の窓辺で、小比類巻圭はひとり、絵本をめくっていた。
タイトルは――『王子にならなかったカエル』。
白鳥梓の新作。
朗読会の事件の直前に出た、いわくつきの一冊。
ページをめくると、物語は最後にこう締めくくられていた。
“カエルは、星には届かなかった。
でも、星を見ているうちは、足元の池もきれいに見えた。”
「……ええ、よくできた余白ですね。
語りすぎず、黙りすぎず、ちゃんと読者の中に残る」
誰に言うでもなく、ひとり言のように呟くと、
後ろから「小比類巻さ~ん!」という間の抜けた声が響いてきた。
振り向くと、西正広が紙袋をぶら下げて、小走りでやってきた。
「ひぇー!やっと見つけましたよ!どこに隠れてたんすか!」
「別に隠れていたわけじゃないですよ。ええ、ただ“観察の時間”が欲しかっただけでね」
「もう、例の事件も解決したんだから、少しは休みましょうよ!
あっ、それより見てくださいこれ、先生の本の“初版限定ステッカー”!子どもたちに人気らしいっす!」
西が興奮気味に差し出したのは、白鳥梓が描いた“2匹のカエルが並んで空を見上げるステッカー”。
そこには、文字はなく、ただ絵だけが寄り添っていた。
「……“ふたり”ですね。
先生、ようやく“独り”じゃなくなった」
「え?ああ、そうっすね。なんか“絵の雰囲気”が前と違いますよね。
優しいけど、ちょっと強いっていうか……」
小比類巻はステッカーを受け取り、じっと見つめた。
「“罪”というのは、“許されないこと”ではあるけれど、
“その後の物語を描いてはいけない”ということではない。
人は、“過去を罰する”だけでなく、“未来に向かう”こともできる。
それをどう描くかは、その人次第。……絵本作家なら、なおさらね」
「……うわー、名言っす。でもちょっと難しい……ひぇっ、俺も“余白”ある人間になれるかな……?」
「まずは、メモの余白を無くさないところから始めたらどうですか。
書き込みすぎて、読む方が疲れるので。ええ」
「ぎゃーっ!今日も安定のツッコミ!地味に刺さる!」
小比類巻は肩をすくめ、資料室をあとにした。
警視庁の玄関を出ると、外の空気は一段と冷たかった。
夕暮れに染まるビルの谷間から、風がひゅうと抜けていく。
彼は足を止めて、ふと空を見上げた。
“見上げた空は、何も語らない。
ただ、今日が終わり、また明日が来るというだけ。”
それが“日常”という物語の形だった。
小比類巻は、コートのポケットに手を入れながら歩き出した。
その手の中には、あのステッカーが一枚――
ふたりのカエルが、何も言わずに、空を見上げている。
彼らに名前はない。
でも、小比類巻は知っている。
“物語の終わり”は、いつだって、“新しいページの始まり”なのだと。
そして、彼はまた次の“ページ”をめくる準備をする。
静かに、静かに。
【完】
カテゴリ:小比類巻刑事の事件簿 [コメント:0]
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