SPEED のメンバーや関係者の方々が、90年代のSPEEDをどう思っていたかを話した、その内容をまとめました。
僕のSPEEDへの感想も併せて書きました。
目次
SPEEDの楽曲
まずはSPEEDの曲についての話。
デビュー曲「Body & Soul」は予定よりキーを2つも上げた
まずデビュー曲は、ミュージックビデオの撮影がとても大変だったとのこと。
サンフランシスコの砂漠で撮影していたら、あまりの暑さに熱中症で倒れてしまった。
だからもう二度とやりたくないと。
レコーディングには約2か月の時間をかけ、レコーディングが初めてだった彼らは、こんなに時間がかかるのかと衝撃を受けた。
島袋寛子さんはこう語っています。
全部終わるまで2カ月くらいかかりましたよね。
私たちは何もわかってないから、
「レコーディングってこんなにかかるんだー。何回歌うんだろう、どんだけ私たちダメなんだ?」
って思ってた(笑)。
キーもどんどん上がっていって……(笑)。
最終的にはデモ音源よりもキーを二つ上げて収録したとのこと。
やっぱりスピードの魅力ってハイトーンの難しい曲を当時小中学生だった彼らがかっこよく歌い上げるというギャップだと思う。
そういう意味でもキーの高さは大事だったと予想される。
デビュー曲は約60万枚を売り上げたが、その記録には小学生だった島袋さんはピンと来なかったとのこと。
ただ、歌詞のメッセージについては今思うと衝撃的だった。
「Body & Soul」はミリオンではなかったけれど、今考えてもものすごいデビュー曲だったと思います。
だって、全部の歌詞がストレートじゃないですか。
当時のスタッフさんは30代前半で、かなりの挑戦だったはず。
楽曲にしても4人の歌って踊る様にしても「よし! これなら売れる!」と思っていたのかどうか、あのときのスタッフさんに聞きたいですね。
当時はあまり考えなかったけど、今聞くとなんか刺激を感じる言葉たち。
あのインパクトはきっと大切だったんだろうな。
「White Love」は、元気なだけじゃないSPEEDを見せる挑戦だった
出荷枚数200万枚を超えたこの曲は、プロデューサーにとってはすごく反応が怖いものだった。
作詞作曲をした伊秩弘将さんはこう言っていた。
「White Love」は自分的にはすごい挑戦だったから、反応がすごく怖かった。
時間がない中でサビだけ最初に出して、カツカツの中で引越しの作業をしながら急遽A、Bメロを付けて。デビューして1年が経って、
「SPEEDが元気なのはわかった。ラブソングがあることもわかった」
という世間のイメージがある中で次の次元を目指すとなると、元気なだけじゃない、抑えた感じのファルセットで歌うサビがいいかなと。
資生堂「ティセラ」のタイアップが決まっていたから、それまでより上の世代とか、一般の人たちにも届けられるなと思ったんです。
発売日の10月15日は、初動30万枚以上って言われてるアーティストのリリースが7組固まってたんですよ。
だからものすごいプレッシャーの中でいろんな挑戦をしてた(笑)。
こうやって話を聞いていると、プロデューサーは当時の彼らを一つ一つの曲を違う見せ方で夜中にアプローチしようとしていた努力が伺える。
最初は子供の雰囲気の残る元気な曲だったのが、どんどん大人びた哲学的な曲になっていき、「my graduation」では、あまりダンスを必要としないボーカルだけで聴かせるアーティストへと変えていた。
SPEED のメンバーの圧倒的な魅力もさることながら、プロデュースのやり方を緻密に考えていたことが、ヒットの要因なことも伺える。
社長に「この曲はものすごくヒットする」と言われた
SPEED の島袋寛子さんは White Love についてこう語っている。
当時事務所の社長から電話があって、
「この曲はものすごくヒットする」
「名曲だから、レコーディングにはその心意気で臨め」って言われたんですよ。
私たちはもう渦の中で、プレッシャーとかまでは感じられてなかったですね。
でもいざリリースされたらもう、今に至るまで皆さんに愛される曲になって……。
まさかAメロが引越しの最中に降りてきたなんて信じられないですよ。
ちなみにこの曲のラストの、あなたのために生きたい、というような歌詞は、単なるラブソングの意味だけじゃなく、ショービジネスの世界でみんなのために生きていきたいという視聴者に対するメッセージも込められていたとのこと。
確かにそこで伴奏が静かになって、そのメッセージを言われると、まるで自分のことを言われているかのような感覚になったな。
SPEEDがハモリをしなかった理由
SPEEDのメインボーカルの二人は、圧倒的な歌唱力を持っていた。
けれど彼らはユニゾンで歌うことがほとんどで、ハモリは行わなかった。
二人組のボーカルとなるとハモることがあたりまえだと思うけど、なぜそれをしなかったのか。
作詞作曲を務めた 伊秩さんは語る。
ハモリは絶対にやりたくなかったんです。
SPEEDの向こう見ずな勢いが止まっちゃうから。
「RIZE」に「陽は沈み やがて昇っていく」っていう歌詞があって、一度沈んだ太陽が昇るときの底知れぬパワーでアルバムをスタートさせてるんだけど、あそこでハモってたら、何かが生まれ始めて来ることを伝えるにはきれいすぎると思った。
ストレート感というのかな。そこにこだわっていたんだよね。これは僕の独りよがりなんだけど
この言葉は、言われてみるとすごく納得する。
ハモリを使わず、力強くユニゾンで歌うことで、すごくストレート感が伝わってくる。
一人一人の繊細な個性を大事にするというよりも、四人組でスピードだと言うパワフルさを感じるには、はまらない方がよかったと改めて思う。
SPEEDの解散
続いて解散について。
解散理由の一つは、声が出なくなったから
彼らは2000年の3月に解散をする。
いろいろな理由があったとのこと。
ただその一つの理由は島袋寛子さんだったと彼女は言う。
「きっかけは私だったと思う」
「声が出なくなるとか、それぞれ思春期だったので思うところがあり、『このまま大人になっちゃいけない』といった焦りもあった」
「(ファンに)変な期待をもたせるよりも解散がいい」
きらびやかに見える世界だけど、彼女たちは学校へ行く時間以外はほとんど仕事に時間を費やしていた。
寝る間も惜しんで睡眠時間も削って、夏休みはライブとライブのリハーサルに時間を使う。
そんな生活を続けていたらストレスもかかるし、身体にも負担がかかる。
それに加えて、あの高音を出し続けるわけだから、声が出なくなるのも自然なことだと思う。
さらに、人としてのプライベートの時間は全くなかった。
そして、この人気がずっと続くわけじゃないということも、幼心に全員が分かっていたとのこと。
そんなタイミングでソロ活動がスタートし、いろんな選択肢が考えられるようになった。
解散は「トラウマになるくらいの出来事」
その上で、解散するというのは本当に怖かったとのこと。
島袋さんが語っています。
あんなに恐ろしいことは後にも先にもないですね。
あれだけ大きなものを止めるというか、手放すというのは、トラウマになるくらいの出来事でした。
解散発表をしてからは、毎日がすごい緊張感に包まれていたし、ずっと重圧を感じていて。
だから2000年3月31日の『ミュージックステーション』(テレビ朝日系)でのラストパフォーマンスが終わった翌日は、全身の力が抜けたのを覚えています。
若干11歳でメジャーデビューをし、17枚ものシングルを約3年半の時間でリリースし、しかもそのうち7枚はミリオンヒット。
通常の小中学生では考えられないほどの大きな期待を背負っていたのであれば、辞めるというのは本当に怖かったと思う。
学生がアルバイトを辞める怖さとは本当にレベルが違うだろう。
解散してからは、グループ時代にはできなかったことをいろいろとした。
髪の毛を短くして、自分の好きな髪型にしたり、母親とのんびり買い物したり、そんな普通の10代なら当たり前にできていることを、解散してからやっとできるようになった。
SPEEDに影響された有名人
当時のSPEEDは、若者たちに人気のグループの一つだったけど、時間が経ち僕を含めいろんな人たちが大人になり、SPEEDにかつて憧れていた影響を受けた人たちが、社会に出て活躍している。
LiSA
芸能界でいえば、SPEEDの大ファンを公言している、アーティストのLiSAさん。
SPEED のメモリアル CD 発売を記念して、LiSAさんはこんなコメントを寄せている。
初めてドキドキをくれたのも、
初めてCDを手にしたのも、
初めて雑誌を切り抜いたのも、
初めて憧れたのも、
初めての夢をくれたのも。
私に初めてをたくさんくれたのはSPEEDさんでした。
私にとって正真正銘の原点です。
当時小学生だった彼女は、同じく小学生だった島袋寛子さんに憧れ、どうにかSPEEDのメンバーに入れないものかと思い、彼らが通っていた沖縄アクターズスクールのオーディションを受けたところ、合格。
LiSAさんは、若干小学4年生という年齢で、沖縄に単身ホームステイをし、2年間スクールに通い、SPEEDに入る日を夢見ていた。
ただブラウン管の向こうで憧れているだけじゃなく、実際に行動に起こし歌とダンスを練習する日々。
大人になってからならまだわかるけど、小学生でここまでの行動力があるって、本当に本当に大きな夢と憧れがあったんだと思う。
NHK の SONGS という番組に出演した際、彼女はSPEEDのファーストアルバム Starting Overを持参して現れた。
明らかに聴き込まれたと思われる、古びたパッケージ。
歌詞のブックレットは、剥がれてしまい仕方なくノリでくっつけなおした。
そのCDを見ているだけでも、彼女が当時どれほどSPEEDに憧れていたのかその情熱が感じられる。
古市憲寿
社会学者の古市さんもSPEEDのファンで、番組で自分の家に島袋寛子さんが来た時、明らかにテンションが上がっていた。
あんなに普段はクールで人間味の薄いキャラなのに笑
今でも彼は毎朝SPEEDの「Wake Me Up」 を聴いているとのこと。
古市さんは、こんな言葉を寄せています。
今から思えば、本当に些細なことに傷ついたり、喜んだりしていたあの頃。
まだブラウン管だったテレビの向こうで、SPEEDが歌っていた。僕の生きる小さな世界の遥か向こうで、SPEEDはきらめきの中にいた。
その光は、僕自身のものではなかったはずなのに、彼女たちの曲を聞くと、あの頃がきらめきと共によみがえる。嫌なことも、泣きたいこともたくさんあったはずの日々が、幸せな時間としてよみがえる。
そういえばSPEEDの曲は、たくさんの青春も擬似体験させてくれた。
仲間が待つ街角。
運命のような出逢い。
仲直りの夜。
終電が近いホーム。
夢を叶えるために旅立つあなた。
曲を聴いていると、自分では経験しなかった青春があふれてくる。
そう、まるで放課後のチャイムみたいに。
きっと同じような気持ちを抱く人は少なくないだろう。
「僕たち」の「青春」はSPEEDを通してつながっているのだ。
SPEEDには、日本中の「戻れないあの頃」が詰まっている。
僕が思う、あの頃のSPEEDの魅力は、子供たちが大人の世界で大活躍をし、夢を見せてくれていたこと。
外見も歌声も、まだあどけない子供らしさが残るのに、歌唱力とダンスはプロそのもので。
同世代がこんな風にテレビの向こうで大人たちと並んで頑張っている。
自分も子供だけど、もしかしたら、あのキラキラした世界に行けるんじゃないか、自分も輝けるんじゃないか。
そんな風に思われてくれたのが彼女たちでした。
遠い存在なのに、身近に感じさせてくれた。
それを感じていた人が、きっとたくさんいたんだろうな。
古市さんの言うように、僕らはSPEEDを通してつながっているんだろう。
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