【登場人物紹介】
■ 桐野 遥香(きりの はるか)
性別:女性
年齢:17歳(高校2年)
性格:理性的で静かだが、芯に強い情熱を秘めている
■ ユウト
性別:男性
年齢:17歳(自称)
性格:穏やかで感情を表に出さないが、心の底では誰かに必要とされることを願っている
■ 一之瀬 麻里(いちのせ まり)
性別:女性
年齢:17歳
性格:快活で友達想い。遥香の心を理解し、支え続けてきた
■ 無名(むめい)
性別:不明(声も姿も曖昧)
性格:中立的で無機質。だが時折、哲学的な含みを持つ言葉を使う
霧の路地で出会った
夕方五時。春とは思えない冷たい風が、商店街のアーケードを通り抜ける。桐野遥香は、駅までのいつもの道を、ふと外れた。
特に理由はなかった。ただ、信号を渡ろうとした瞬間、「こっちじゃない」という感覚が、身体の奥から湧いてきたのだ。
静かな裏路地に足を踏み入れると、空気はがらりと変わった。アスファルトは濡れ、小さな水たまりがいくつもできている。街のざわめきが遠のき、代わりに聞こえるのは、古びた看板が風に揺れる金属音だけ。
その路地の奥で、彼は座っていた。
錆びついた自動販売機の隣、小さな木箱を椅子にして、足を組んでいる少年。年齢は、自分と同じくらいか、少し上か。制服ではなく、ベージュのコートを羽織り、前髪が風に揺れている。顔はよく見えないが、気配が妙に静かだった。
少年の前には、黒いスケッチボードが立てかけられていた。そこにはチョークの白い字で、こう書かれている。
「記憶、売ります」
遥香は思わず足を止めた。
「……記憶?」
少年が顔を上げた。光の少ない場所でも、その目の奥が淡く光ったように見えた。
「興味あるの?」
声は低く、意外にも柔らかかった。無愛想ではなく、どこか馴染みやすい響きがあった。
「いや……ただ、珍しくて」
遥香は視線を逸らしながら答えた。記憶の売買なんて、本当に存在するのか。そう思いながらも、彼の横に置かれている銀色の端末に目が行った。
それは、小型の神経転写装置――MNコードユニット。
《MN(Memory Nexus)コード》――数年前に発表された、人の記憶を神経レベルで抽出・保存・移植する技術。政府は公式には使用を認めていないが、民間では非合法な「記憶の売買」がすでに横行している。
感情や映像、音、嗅覚までを含む完全な記憶データは、「体験資産」として高値で取引されているのだ。
売り手には、忘れたい過去を“完全に消去”できるというメリットがある。失恋、事故、喪失――重くのしかかる記憶を文字通り「削除」できるというのは、ある種の救いでもある。
また、特別な経験――命を救った瞬間、大きな成功体験、恋人との濃密な時間など――は、購入者にとって“追体験”や“技術継承”の手段として高い価値を持つ。
医師や兵士、アーティストなど、一部の分野では、他者の記憶を得ることで即戦力を育てる動きすら出始めていた。
遥香はそれらの知識を知っていた。でも、実際に“記憶を売る”と掲げた少年に出会うのは初めてだった。
「本当に……記憶、売ってるの?」
彼は頷き、小さな端末を掲げて見せた。
「MNコード認証済み。抽出済み記憶はカプセルに保存済み。閲覧サンプルもあるよ」
彼の語り口は静かで、どこか誇りすら感じられるようだった。
「……どうして、そんなことしてるの?」
彼はしばらく黙ってから、言った。
「もういらないんだ、僕には。僕自身が何者だったかなんて、知る必要もないと思ってた。でも――最近は、ちょっとだけ、違うかもしれないって思うようになって」
「どういうこと?」
「君を見て、そう思った」
遥香は息をのんだ。からかわれているのかと疑ったが、彼の目は真剣だった。
「……私のこと、知ってるの?」
「いや。思い出せない。でも、心がざわざわする。君を見た瞬間、身体の奥が震えた」
遥香の中で、なにかがひっそりと弾けたような気がした。何も始まっていないはずなのに、始まってしまったような――そんな予感。
「名前……聞いてもいい?」
「ユウト。カタカナで、“ユウト”って書くんだ。漢字はない」
「私は……遥香。桐野遥香」
彼は微笑んだ。ほんの少しだけ、苦しさを隠すような笑みだった。
「……いい名前だね。どこかで聞いた気がする」
遥香は心の中で震えていた。なぜ、この人の目を見ていると、涙が出そうになるのだろう。
雨が降り出した。ぽつり、ぽつりと冷たい雫が肩を濡らす。
「……もう行くね」
「うん。またね、遥香」
「……え?」
またね――。まるで、それが約束だったみたいに、彼は自然に言った。遥香は戸惑いながらも、小さく頷いてその場を離れた。
帰り道。傘を差しながら、ずっと考えていた。
――あの人は、私を知ってる。
――私も、あの人を知っている……気がする。
その夜。遥香は、またあの夢を見た。
トラックのクラクション。
跳ねる水しぶき。
自分をかばって飛び込んできた“誰か”の影。
その腕の中で感じた、温かい手の感触だけが、鮮明に残っている。
名前も、顔も思い出せない。でも、忘れてはいけない気がする。
そしてなぜだか――
あの少年、ユウトと同じ手だったように思えた。
翌朝、目が覚めた瞬間、遥香は胸の奥がじんわりと痛むような、妙な重さを感じていた。昨夜見た夢のせいだろう。
――誰かが、自分を抱きしめていた。
――雨が降っていた。
――その人の手は、冷たくて、それでも温かかった。
枕元のノートに、目覚めたままの意識で、その夢の断片を文字に書きつけていく。習慣のように始めた“夢の日記”だ。記憶とは違い、夢はすぐに消えてしまうから、少しでも形に残しておきたいと思っていた。
今日のノートには、こんな一文が書かれていた。
> 「夢の中の手。
> 雨と風と、誰かの背中。
> 目を開けたら、何もなかった。
> でも、心だけが覚えてる。」
ペンを置いたとき、ふと昨日のことが頭に浮かぶ。
“記憶、売ります”と掲げた少年。ユウトと名乗った彼。
初対面のはずなのに、初めてじゃないような――その感覚が、どうにも抜けなかった。
「……本当に、偶然だったのかな」
ぼんやり呟いた声は、誰にも届かず、静かな部屋に吸い込まれていった。
◆
学校はいつも通りだった。
廊下を歩く生徒たちの笑い声、チャイムの音、窓から差し込む春の光。すべてが日常そのもので、昨日の出来事が、まるで遠い記憶のように感じられた。
昼休み、屋上へ続く階段の踊り場で、遥香はパンをかじりながら空を見ていた。
そこへ、足音と共に現れたのは、一之瀬麻里だった。
「おーい、また一人でご飯?ほんとそういうとこ変わんないよね」
「……別に。一人が落ち着くんだもん」
「ふーん?それ、ほんとの一人じゃないから言えるセリフだよ?」
遥香は苦笑する。麻里はこうしていつもタイミングよく現れては、適当な冗談を飛ばしながら、なんとなく隣にいてくれる存在だった。
だが、今日の遥香は、少し様子が違った。
「ねえ、麻里。昨日さ、変な人に会ったの」
パンを口に運ぶのをやめ、遥香はぽつりと語り出す。
「“記憶、売ります”って書いてある看板出してて……。記憶売買って、知ってる?」
麻里はパンの袋を開けた手を止めた。
「……うん。知ってる。非公式だけど、実際にあるよ。“MNコード”、でしょ?」
「うん。あの人、本当にそれ使ってた。小さな端末持ってて、記憶を……売ってた。名前はユウト、って」
麻里の表情が、一瞬だけ凍った。だがすぐに、何事もなかったように笑う。
「へえ。なんか、小説の世界みたいだね」
「うん……でも、リアルだった」
そのとき、屋上から吹き下ろした風がふたりの髪を揺らした。遥香は、昨日の彼の言葉を思い出す。
『君を見た瞬間、身体の奥が震えた』
『君を見て、何か変わる気がした』
遥香の中で、何かがゆっくりと軋みながら動き始めていた。
言葉にできない感情が、記憶とも直感とも違うかたちで、心を揺らしていた。
麻里はその横顔をじっと見つめ、そっとつぶやいた。
「ねえ遥香、その人にはあまり関わらない方がいいよ」
「え……なんで?」
「なんとなく、直感。……ってことにしておく」
誤魔化すように笑う麻里の声は、どこか震えていた。
それに気づいた遥香は、それ以上何も聞けなかった。
◆
放課後、帰り道。遥香は昨日とは違う道を選んだ――のだが、途中で立ち止まり、気づけばまた同じ路地へと足を運んでいた。
雨は降っていなかったが、空気はしっとりと湿っていて、昨日の感覚が甦る。
ユウトは、いなかった。
スケッチボードも、木箱もない。ただ、同じ場所に風が吹き、赤く錆びた自販機だけが変わらずそこにあった。
それでも、遥香は確信していた。
「きっと、また会える」
なぜそんなふうに思えるのかは、わからない。
でもその“わからなさ”こそが、確かに自分の中に存在している証のように感じられた。
そして、また夜が来る。
眠りの中、遥香は夢を見る。
今夜の夢には、鳥がいた。
青い空を、自由に羽ばたく一羽の鳥。その下で、誰かが空を見上げている――その背中だけが、妙に切なかった。
昼休みの教室はいつもどおり、ざわめいていた。
笑い声、誰かのスマホの着信音、部活動の話に花を咲かせる女子たち――そのどれもが、遥香にとっては遠くの出来事のように感じられた。
黒板をぼんやりと見つめながら、彼女は指先で机の縁をなぞる。
《記憶、売ります》
昨日見たあの文字が、頭の中で何度も繰り返されていた。
あの少年――ユウト。名前だけが鮮明で、その他の情報は薄い霧に包まれている。なのに、その名前を心の中で唱えるたび、胸の奥がじんわりと温かくなる。
感情が、記憶を先回りしている。
そんなふうに思った。
「遥香?」
麻里の声に振り向くと、彼女は少し不安そうな顔をしていた。
「ぼーっとしてた。……最近、なんか変だよ?」
「……そう、かな」
麻里は言葉を探すように口を動かしたあと、そっと問いかけた。
「ねえ、昨日言ってた“ユウト”って人。……また会いに行った?」
「ううん。行ってない。……でも、行こうと思ってる」
その返答に、麻里はゆっくりとまばたきした。何かを言いかけて、飲み込んだような顔だった。
「そっか……」
会話はそこで終わった。
◆
その日の放課後、遥香は再びあの路地を訪れた。
昨日と同じ、いや、それより少し強い風が吹いていた。けれど、今日もユウトの姿はなかった。
代わりに、自販機の前に小さな紙袋が置かれていた。
袋には、あの手書きの文字。
「記憶、売ります」
中を覗くと、小さな銀色のカプセルと、手書きのメモが入っていた。
> 「サンプルです。ほんの少し、僕の記憶。
> 君が見ても、きっと意味はない。
> でも、もしそれで“何か”を感じたら、
> それは君の中に僕がいるという証拠。
>
> ――ユウト」
遥香は唇を噛みしめた。
どうして、こんなことをするんだろう。
なぜ、自分にこんなものを渡すんだろう。
ポケットにカプセルをしまい、家へと足を向けた。
◆
夜。机の上、ノートパソコンの横にカプセルを置いて、遥香はしばらくそれを見つめていた。
この中に、“誰かの記憶”が入っている。ユウトの記憶が。
カプセルを専用リーダーにセットすると、パソコンの画面に淡い映像が広がった。記憶体験は視覚・聴覚・感覚を伴って再現される。すべてを追体験するわけではないが、断片として“感情”が残されているという。
映像は、街の風景だった。
強い日差しの中、子どもたちの声が響く。パン屋の前を通り、誰かの後ろを歩いている。
その“誰か”の後ろ姿が映る瞬間、遥香の心臓がどくんと鳴った。
小さな女の子。ランドセル。
遠くからトラックの音。
そして――その女の子が横断歩道に飛び出す。
「待って!」
叫んだのは、カメラの持ち主――つまり、ユウトだった。
その後、視界が傾き、地面が近づいてくる。トラックのクラクション。空に手を伸ばす少女。自分の身体が、その子を抱きしめて地面に転がる――
次の瞬間、映像はブラックアウトした。
遥香は息を呑んでいた。
そして、涙が頬を伝っているのに気づかなかった。
なぜ、泣いているのか。
なぜ、こんなに胸が痛いのか。
でも、はっきりとわかった。
あの少女は、自分だ。
そして、自分を助けたのが――ユウトだった。
感情が、記憶に追いついた瞬間だった。
午後の空は鈍く曇っていた。春の陽射しは隠れ、肌寒い風が制服の袖口から忍び込む。
放課後の校門を出た瞬間から、遥香の足は、自然と例の路地へと向かっていた。
もはや迷いはなかった。胸の奥に確かな“確信”があった。
――あれは、私の記憶。
――私を救ったのは、あの人。
記憶カプセルの映像は断片的で、はっきりと顔が映っていたわけじゃない。けれど、あの声、あの走り方、そして……あの“手の感触”。
身体が、それを覚えていた。
自販機の前に、ユウトはいた。
昨日と同じように、木箱に腰掛け、薄いベージュのコートを羽織って。まるで、誰かを待っていたようにも見えた。
「……やっぱり、いた」
遥香がそう呟くと、ユウトはゆっくりと顔を上げた。
目が合った瞬間、昨日よりも強く、胸の奥がざわついた。名前を呼ぶ前に、感情がこみ上げてくる。
「遥香……だよね」
彼が口にしたその名は、どこか不確かな響きだった。
覚えているというより、確認するような言い方。
「うん……」
遥香は、足を止めずにそのままユウトの目の前まで歩き、彼の視線をまっすぐに受け止めた。
そして、問うた。
「……私を、覚えてる?」
ユウトの目が揺れた。
「……わからない。でも、君に会うと、心臓が苦しくなる。……懐かしい、っていうのとも違う。苦しいのに、嬉しくて……なんか、あたたかい」
遥香は、喉が詰まりそうになるのを感じながら、さらに一歩踏み込んだ。
「……私を助けてくれたの。昔、事故に遭いそうになったとき、誰かが飛び出してきて、私を守ってくれた。……その誰かが、あなたなの」
ユウトは目を伏せ、手のひらをじっと見つめる。
自分の手が、何をしてきたのか。その痕跡を探すように。
「……事故の記憶は、ないんだ。僕は、昔のこと……全部、売ったから」
「売った……?」
ユウトは静かに頷く。
「生き延びるためだった。……事故に遭って、意識を失ったまま、目が覚めたときには、〈記憶交換所〉のベッドにいた。体は奇跡的に無事だったけど、“存在”を保つには、記憶を売るしかなかったんだって。……だから、僕は、自分の“これまで”を全部、手放した」
その声には、恨みも嘆きもなかった。
ただ、淡々とした諦めと、静かな受容があった。
「……私を助けた記憶も?」
「……そうみたい」
遥香は、胸が締めつけられるのを感じた。
あんなにも命を賭して守ってくれた記憶が、彼の中には、存在していない――。
「でも、どうして……」
「君の顔を見たとき、確かに……感じたんだ。これまで、どんな人と出会っても起きなかったのに。君を見た瞬間だけ、心が、叫んだ」
「……叫んだ?」
「“この人を、離しちゃいけない”って」
遥香は、言葉を失った。
記憶がなくても、心が反応していた。
それは、自分自身も同じだった。
昨日から、いや――もっと前から、彼の気配を、身体のどこかで知っていた気がする。
ユウトは、ぽつりとつぶやいた。
「……不思議だよね。記憶がないはずなのに、遥香って名前を聞くと、胸が熱くなる。……そういうのって、あるのかな。記憶じゃなくて、感情だけが残るって」
「あるよ」
遥香は、はっきりと答えた。
「だって私、あなたの記憶の中で泣いたもの。あなたが私を守った記憶――たった数秒の映像なのに、見た瞬間、涙が止まらなかった。理由なんて、いらなかった。ただ……感情が、先にあった」
ユウトは驚いたように遥香を見つめ、目を伏せた。
「僕の……記憶の中に、君がいたんだ」
「いたよ。確かに、いた」
二人の間に、風が吹いた。
静かで、どこか優しい風だった。
「……ねえ、ユウト。自分の記憶を……取り戻したいと思う?」
その問いに、ユウトはしばらく答えなかった。
空を見上げ、目を細めた。
「……わからない。でも、もし取り戻せたとして、そこに“君”がいるなら……知りたいって、今は思ってる」
遥香の胸が、きゅっと痛んだ。
この人のために、できることがあるなら――
私は、記憶なんかよりも、もっと深いところでつながりたい。
ふたりの会話の先に、まだ見ぬ“過去”と“未来”が、静かに広がっていた。
記憶の値札、心の取引
白く曇ったガラスドアを、遥香は震える指でそっと押した。
カラン――。
ドアベルの音は、意外なほど柔らかく響いた。けれどその音が、まるで自分の心の奥深くで何かを引き裂いたような気がした。
そこは、まるで病院の待合室と美術館を掛け合わせたような空間だった。白を基調にした壁に、抽象的なアートが静かに飾られている。空気には薬品とも香水ともつかない、人工的な匂いが漂っていた。
〈記憶交換所〉――この街のどこかにあると噂される“非正規の記憶取引所”。合法ではないが、黙認されている。
昨日、ユウトと別れたあと、遥香は帰宅してすぐにネットを検索し、この場所を見つけた。地下鉄の出口から徒歩七分。人通りの少ない商業ビルの三階。看板も案内板も出ていない。まるで、来る人だけを受け入れる“結界”のような場所だった。
奥のカウンターの向こうで、誰かが椅子に座っていた。
白いシャツに黒いベスト。薄灰色のスカーフを首に巻いた、その人は、男にも女にも見える――いや、見る者によって印象が変わるような存在だった。声すらも、年齢や性別の輪郭を持たない。
それが、“無名”だった。
「ようこそ、記憶交換所へ」
落ち着いた声が、空間を満たした。
「あなたの名前と、目的をお聞かせください」
遥香は、喉を湿らせるように一度だけ唾を飲み込んでから、口を開いた。
「……桐野遥香。目的は……“記憶の買い戻し”。ある人の……過去の記憶を」
無名はまばたきもせず、静かに頷いた。
「記憶の買い戻しには、同等の“代価”が必要です。あなたは、何を提供されますか?」
遥香はすぐには答えられなかった。
その問いの意味は、あまりにも重すぎた。
無名は言葉を重ねる。
「あなたが求めているのは、“沢渡ユウト”の記憶ですね」
遥香の目が揺れる。
「……どうして、それを?」
「ユウトの記憶は特殊です。すべての記憶が“契約的に売却された状態”にあり、通常の記憶とは異なります。彼の記憶を買い戻すには、対等か、それ以上の価値を持つ記憶が必要です」
「……そんな、私は何を出せば」
「“初恋”などは、取引において高値がつく傾向にあります。感情が鮮烈で純度が高いため、需要が高いのです」
遥香は目を見開いた。
「……初恋?」
無名は、うっすらと口元を上げたように見えた――いや、そう見えただけかもしれない。
「はい。あなたが“誰かを好きだった記憶”。それがユウトであれば、なお高値で取引可能です」
遥香は息を飲んだ。
自分の“ユウトへの気持ち”を、手放すということ――
それは、ただの記憶を失うこととは違う。
彼と出会った意味、想い、すべてが薄れていくことになる。
「……そんなこと、できるの?」
「できます。多くの方がそうしています。“苦しいほど好きだった記憶”を捨て、“忘れて生きる”ことを選ぶ人もいるのです。反対に、それを“体験したい”という人間もいます。……記憶とは、価値のある商品なのです」
遥香は、目の前の白いカウンターを見つめる。
その上には、いくつかのカプセルが並べられていた。小さなビー玉のような透明な容器に、それぞれ色の違う光が宿っている。
「これは、何の記憶?」
「左から順に、“別れ”、“死”、“成功”、“はじまり”」
遥香は震える手で、“はじまり”と書かれたカプセルに触れた。途端に、胸の中がじんわりと温かくなった。
無名が囁くように言う。
「それは、誰かが“恋をした瞬間”の記憶です。大切な人と目が合った、ただそれだけの記憶。でも、その温度は永遠に残る。……あなたも、持っていますね? そういう記憶を」
遥香の心が揺れる。
“初めてユウトを見た瞬間、胸が熱くなった”
“夢の中で、彼の背中を見て泣いていた”
“何も知らないのに、彼を“知っている”と確信できた”
それら全部が、“初恋”というひとつの言葉に繋がっていた。
「……ユウトの記憶を取り戻すには、これを……?」
「あなたの“初恋の記憶”。それと引き換えに、彼の“事故の直前までの記憶”が手に入ります」
遥香は、カプセルを握った。
「……いいよ。渡す。……私が持ってても、どうせずっと苦しいだけだから」
その声には、決意が滲んでいた。
無名は何も言わずに頷き、静かに操作パネルを起動した。
遥香は目を閉じた。頭の奥に、温かい光が差し込んでくる。
そこに、ユウトと出会ったときの感情が、やさしく浮かびあがって――そして、消えていった。
次に目を開けたとき、遥香の胸には、奇妙な静けさがあった。
何かを失った。
けれど、何かを――これから取り戻せる気がした。
ユウトは、またあの場所にいた。
記憶を売る少年として、変わらず路地裏の自販機の前に腰かけている。
けれど今日は、遥香の目に映るその姿が、ほんのわずかに違って見えた。
薄く揺れる前髪の下、目元の奥には、どこか“問い”のようなものがあった。
風が吹いた。柔らかく、春を含んだ風だった。
午後の陽射しは斜めから差し込み、ふたりの影を地面に静かに重ねていく。
「来てくれて、嬉しいよ」
ユウトが言う。微笑んでいるのに、どこか不安そうな声だった。
遥香は彼の目の前に立ち、そっと小さな銀のカプセルを取り出した。
――それは、彼の“記憶”。遥香が、自分の“初恋”と引き換えに取り戻したものだった。
「……これ、あなたの記憶。事故の直前までの、全部」
彼の手のひらにカプセルをそっと乗せると、ユウトはその小さな光を見つめながら、ゆっくりと瞬きをした。
「……これを、僕に?」
「うん。思い出してほしいの。あなたが……私を、守ってくれたことを」
その言葉に、ユウトは顔を上げた。
目の奥がわずかに揺れている。彼の中に、確かに“何か”がある。それはまだ形を持たないけれど、今にも息を吹き返しそうな命のようだった。
ユウトは、カプセルをMNコードの小型端末にセットした。
装置が微かな電子音を鳴らし、記憶データが彼の神経にリンクされていく。
その間、遥香は黙って彼を見守っていた。
彼が、ようやく“自分”に会えるようにと。
数十秒後。
ユウトは、そっと目を閉じて――そして、ゆっくりと開いた。
「……」
風が止んだ。
まるで、世界が静かに息を潜めたかのようだった。
「……見たよ」
ユウトは、かすれた声で言った。
「君が……君が泣いていた。道路に飛び出して、転びそうになって……僕は……咄嗟に、君を抱きしめた」
遥香は、唇を噛み締める。
その言葉だけで、十分だった。もう、涙が溢れて止まらなかった。
「ありがとう……ずっと、言いたかったの。あなたがいなかったら、私は……今ここにいなかった」
ユウトは、彼女の涙を見つめながら、ゆっくりとうなずいた。
その表情は、どこか懐かしい誰かを思い出すような、静かな幸福に満ちていた。
「……思い出してよかった。君の名前も、声も、泣き顔も……全部、ちゃんと僕の中にあったんだってわかったから」
遥香は、小さな声で問いかけた。
「……怖くなかった? 全部思い出すのって」
ユウトは、静かに笑った。
「怖くなかった。むしろ、こんなにあたたかいものが僕の中にあったことに……驚いたんだ」
彼の目に涙が滲んでいた。
その涙は、自分自身の過去を見つけた人だけが流せる、透明な証だった。
「君の中に、僕がいたんだね。……そして、僕の中にも、君がいた」
そう言った瞬間、ユウトの指先が、微かに震えた。
遥香が気づいたのは、ほんのわずかな違和感だった。けれど、それは確実に、何かの始まりだった。
「……ユウト?」
「うん……なんでもない。たぶん、少し疲れただけ」
彼はそう言って、曖昧に笑った。
けれどその背中は、どこか遠ざかろうとしているように見えた。
◆
その夜、遥香はベッドの中で目を開けていた。
窓の外では風が強まり、街灯が揺れている。
思い返せば、彼と会ってから、まだほんの数日しか経っていない。
でも、その間に自分の中で起きた変化は、時間では測れない。
――私たちは、もう“出会っていた”。
記憶を通してでもない。言葉を通してでもない。
もっと深いところで、ずっと、つながっていた。
だからこそ、あのとき、彼の目を見た瞬間にわかったんだ。
“この人を、離しちゃいけない”って。
そして今――
“何かを失ってしまいそうだ”という、得体の知れない不安が、静かに胸の奥を満たしていた。
翌日、雨が降った。
春の雨は優しいはずなのに、今日のそれは冷たく、何かを予感させるような張り詰めた気配を纏っていた。
遥香は学校帰り、迷うことなく例の路地へと足を運んだ。
そこにユウトがいる――それだけが、今日一日を耐えられた理由だった。
だが、路地には見慣れない人物が立っていた。
黒いロングコートに、白いスカーフ。中性的な顔立ちと、感情の読めない瞳。
「……無名」
遥香は思わずその名を口にした。
無名はまるで待ち伏せしていたかのように、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「こんにちは、桐野遥香さん」
その声は、昨日の記憶交換所で聞いたものと同じだった。落ち着いていて、冷たいほどに整っていた。
だが、今日の無名は、どこか“物語の終わり”を告げに来た使者のような気配をまとっていた。
「ユウトは……?」
「すぐに会えます。ただ、その前にお伝えしなければならないことがあります」
無名は、感情を排した口調で語り始めた。
「ユウトは、すべての“記憶”を再統合しました。
これにより、MNコードにおける“記憶保持者の構造定義”が破綻しました。彼の存在は、記憶を失った状態で構成されていた仮定的な存在です。記憶を取り戻したことで、MNコードは矛盾を検出し、自己消失プロトコルが発動しています」
遥香は、その言葉を理解しようと必死だった。
「……どういう、こと?」
無名の瞳が、ひとつの答えを突きつけるように動いた。
「彼は、もう長くこの世界にいられません。記憶の回収によって存在の核が“初期定義と異なる状態”になり、MNコードは自動的に“構成崩壊”を進めています」
「そんな……じゃあ、ユウトは――」
「消えます。記憶の中に、そして誰の記憶の中にも、徐々に存在できなくなる。……彼は、選んだのです。あなたを守ることを。そして、あなたに出会うために、自分の過去を取り戻すことを」
遥香は、ふらりと足元が崩れるような感覚に襲われた。
目の前が揺れ、世界の音が遠のいていく。
ようやく心が通じ合ったばかりだった。
たった今、ようやく“過去と今”がひとつになったばかりだったのに。
なぜ、それが終わりを連れてくるのか――
「彼は今、あの公園にいます。あなたが幼い頃によく通った場所ですね。……最後に、伝えたい言葉があるのでしょう」
無名は、そこまで言うと一礼し、静かに背を向けた。
その背中は、どこか神殿の巫女のようであり、同時に裁きを下す神のようでもあった。
◆
公園には、雨上がりの光が差していた。
ブランコの軋む音と、遠くで鳴く鳥の声が交錯する静けさの中、ユウトはひとり、ベンチに座って空を見ていた。
遥香がその姿を見つけたとき、胸の奥にひどく鋭い痛みが走った。
「ユウト……」
その名を呼んだ瞬間、ユウトが振り向いた。
笑っていた。いつものように、静かに、優しく。
「来てくれて、ありがとう」
「……ユウト、聞いたの。あなた……」
遥香が言葉を繋げられないまま立ち尽くすと、ユウトはそっと手を差し出した。
「座って。少しだけでいい。君と、ちゃんと話がしたい」
遥香はベンチの隣に腰を下ろす。そのとき、ユウトの手が少しだけ震えているのに気づいた。だけど、彼は何も言わなかった。
「……全部、思い出したよ。君のこと。名前も、声も、手の温もりも。僕が守った記憶。僕が、君を好きだったってことも」
「だった、なんて……」
遥香の声が震えた。
「今だって、これからだって、ずっと――」
「……それでも、僕はもう、ここにはいられない」
ユウトは空を見上げた。どこまでも透き通るような、優しい空だった。
「記憶を売ったとき、僕の存在は“記憶を持たない者”として定義された。それが前提だった。だから、記憶を取り戻した今……MNコードは、僕を否定しはじめた」
遥香は、ただ首を振ることしかできなかった。目から涙がこぼれ落ちていく。
「離れたくない……お願い、消えないで」
「僕も、君と一緒にいたいよ。もっと、君と過ごしたかった。たくさんの景色を、君と見たかった。……だけど、これは、もうどうしようもないんだ」
ユウトは震える手で、遥香の髪を撫でた。
その指先が、少しずつ透けてきているように見えたのは、気のせいではなかった。
「君は、生きて。僕のことは、忘れてもいい。でも――」
彼は、そっと囁くように言った。
「君が幸せなら、それだけで、僕の存在は報われる」
遥香は、その言葉を聞きながら、ただ泣いた。
もう言葉にならない想いが、雨の後の空気に溶けていった。
その夜、風は静かに吹いていた。
雨があがったばかりの舗道はまだ濡れていて、街灯の光を鈍く反射していた。
ユウトは、遥香と並んで歩いていた。
ゆっくりと、確かめるように、一歩ずつ。
「……この道、覚えてる?」
遥香がぽつりと口を開く。
ユウトは横顔を見ながら、少し考えてから頷いた。
「うん。君と初めてすれ違ったときも、夢で見たときも、この道だった気がする」
「ふふ、夢って……」
遥香は、微笑んだ。
笑うのは久しぶりだった。涙ばかりの数日だったけれど、今は、ただ笑っていたかった。
たとえそれが、もう二度と戻らない時間だとわかっていても。
ふたりは、人気のない公園のベンチに腰掛けた。
遠くで、風が葉を揺らす音だけが響いていた。
「……これから、どうなるの?」
遥香の声は、震えていた。でも、ユウトはその手を握って、ゆっくりと答えた。
「わからない。もしかしたら、ある日突然、消えるかもしれないし。記憶も、感情も、存在そのものも……世界のどこにも、僕がいた証が残らなくなるかもしれない」
「そんなの……残酷すぎる」
「でも、きっと……それでもいいんだ」
「よくない……」
遥香は、はっきりと首を振った。
もう、強がりはやめようと思った。理屈も、覚悟も、そんなものは何の役にも立たない。
「だって私は……まだ、あなたといたいもん。もっと話したいし、もっと、知りたいし、……もっと、触れていたい」
ユウトは驚いたように目を見開いて、それから、ゆっくりと笑った。
それは、今まで見せたどの笑顔よりも、柔らかくて、切なかった。
「……遥香。ありがとう」
「何に?」
「僕を、僕に戻してくれて。……ずっと、自分が何者なのかわからなかった。でも、君がいてくれたから、思い出せた。
それに――」
ユウトは遥香の手の甲を撫でながら、そっと目を閉じた。
「……君が、好きだった」
遥香は、呼吸が止まりそうになった。
「それは、もう過去形?」
「ううん。今も、たぶん、これからも。たとえ僕が消えても、君を好きだったことだけは、きっと残る」
その言葉に、遥香は耐えきれず、肩を震わせた。
目からこぼれた涙は止まらないのに、心の中には、不思議とあたたかい何かが広がっていた。
しばらく、ふたりは沈黙の中で手をつないでいた。
言葉はもう、必要なかった。鼓動と、呼吸と、肌の温度だけで、十分だった。
「……ねえ、ユウト」
「うん?」
「もし、私のことも全部忘れちゃって、誰も君のことを覚えてなかったとしても……」
遥香は、そっと彼の肩にもたれた。
「私は覚えてる。思い出せなくても、“何か”をきっと感じると思う。……だから、怖くないでしょ?」
「うん。全然、怖くない」
ユウトは、そう言って、彼女の髪にそっとキスを落とした。
静かに、深く、何もかもを込めるように。
「遥香……ありがとう」
「何回言うの、それ」
「何回言っても足りないから」
ベンチの上でふたりは寄り添い、空を見上げた。
星は見えなかった。雲が多くて、夜は深かった。
だけど、遥香の中には、小さな光が確かにあった。
それは記憶じゃない。感情でもない。――“想い”だった。
たとえ、明日が来なくても。
たとえ、彼がこの世界からいなくなっても。
この時間だけは、間違いなく存在した。
そして、ユウトもまた思っていた。
――遥香の手の温もりを、
――この夜の匂いを、
――そして、彼女が流した涙を。
たとえ、MNコードがすべてを消したとしても。
この感情は、消えないと信じていた。
存在の終わり、記憶のはじまり
朝、目が覚めたとき、遥香はひどく静かな気持ちだった。
夢を見ていた気がする――それは確かだった。だけど、どんな夢だったのかは思い出せなかった。
枕の端に、涙の痕が残っていた。
起きてすぐなのに、胸が少し重たかった。
「……なんだろう、これ」
ほんの少しだけ、悲しい。
だけど、それが何に対してなのか、自分でもわからない。
眠いわけでも、疲れているわけでもない。
天気は良くて、春の空気も心地いいはずなのに――
ただ、ぽつりと胸の真ん中に、抜け殻のような感覚が残っていた。
気のせいかもしれない。季節の変わり目だし、感傷的になる時期だ。
でも、どこかで“気のせいであってほしい”と願っている自分がいた。
◆
通学路を歩いていても、教室に座っていても、その“感覚”はずっと消えなかった。
ほんの少し、景色が遠く感じる。人の声が、輪郭を持たずに響く。
話しかけられても、うまく反応ができない。
脳がワンテンポ遅れて現実に追いついているような、そんな感覚。
「遥香? ねえ、大丈夫?」
麻里の声がした。
昼休み、屋上へ続く階段の途中。遥香はいつの間にかそこにいて、じっと窓の外を見ていた。
「……うん。ごめん、ちょっとぼーっとしてただけ」
「なんか……この前から、ちょっと変じゃない?」
遥香は笑ってみせた。
「変なの、いつもでしょ」って冗談めかして。けれど、自分の声も、思っていたより少しだけ小さかった。
麻里はそれ以上追及せず、ただ隣に立った。
ふたりでしばらく、沈黙の時間を過ごす。
「ねえ麻里……最近、なんか……なんて言うか、ちょっと、心がすーって抜けた感じになること、ある?」
「え?」
「理由もなく、寂しい感じ。……何かが足りない気がするけど、それが何か思い出せない、みたいな」
麻里は黙っていた。
そして、ほんの一瞬だけ、悲しそうな目をした。
「……あるよ。たまに、ね」
それだけ言って、微笑んだ。
遥香は、それ以上は聞かなかった。
言葉にできない感覚を、無理に定義づける必要はない気がした。
◆
その日、放課後。遥香は特に理由もなく、学校から家へ帰る途中のルートを変えた。
曲がり角をひとつ違う方向へ。信号を渡らずに、裏通りへと歩いた。
知らない道じゃない。でも、なんとなく“いつも通らない道”。
そこで、赤く錆びた自動販売機の前を通りかかったとき、遥香の足がぴたりと止まった。
目の前には、空っぽのスペース。誰もいない。
でも、なぜか“誰かがいたような気がする場所”。
手のひらがじんわりと熱を持つ。
風が頬を撫でていく。春のにおいが、記憶の奥に触れたような気がした。
「……この場所、なんか……」
声にしてみたものの、言葉はそこで途切れた。
誰かと話したような気もする。誰かの声がした気もする。でも、それは曖昧な幻のようだった。
何かを思い出そうとすると、まぶたの裏がきゅっと痛んだ。
名前のない焦燥感だけが、じわりと広がっていく。
――なにか、あった気がする。
でもそれは、“あった気がする”という感覚にすぎない。
確証も、手がかりも、記憶もない。ただの心の揺らぎ。そう言ってしまえば、それまでのこと。
だけど、遥香は確かに感じていた。
“気のせい”と切り捨てるには、この場所に立つ意味がありすぎた。
地面に落ちていた、小さな紙片を拾い上げる。
そこには、鉛筆の薄い線で描かれた鳥の絵。羽ばたいている姿。それを見た瞬間、遥香の心が、ふっと締めつけられた。
「……きれい」
それだけ。意味はわからない。でも、たまらなく胸が熱くなった。
その鳥が飛んでいる空に、誰かが手を伸ばしていたような気がした。
遥香は、その紙をそっとポケットにしまい、歩き出した。
何を探しているのか、わからない。
でも、“何か”を探していることだけは確かだった。
春の風が、やわらかく吹いていた。
その感覚は、日を追うごとに強くなっていった。
最初はただの気のせいだと思っていた。
春という季節が、どこか人を感傷的にさせるのだと思っていた。
けれど今ではもう、否定できない。
遥香の中に、確かに何かが“ぽっかりと”空いていた。
言葉にできない。説明もできない。
ただ、心の奥のほうで、誰かが「ここにいたはずだ」と叫んでいるような、そんな痛みに似た感覚。
ふとした瞬間に訪れる。
登校中の交差点で信号待ちをしているとき。
授業中、ノートを開いた瞬間。
コンビニでおにぎりを手に取るとき。
すべては、日常のひとこまでしかないはずなのに――その中に、ごくかすかな“違和感”が混じっていた。
この風景、見覚えがある。
この匂い、知ってる気がする。
この言葉、誰かと交わしたような――
けれど、その“誰か”が誰なのかは、どうしても思い出せない。
◆
週末、遥香は部屋の掃除をしていた。
片づけるというより、何かを“探している”ような感覚に近かった。
机の引き出しを開けたとき、ふと、折れた封筒のようなものが目に入った。
中には、小さな紙片が一枚。
――そこには、鉛筆で描かれた鳥の絵。
空を飛ぶ、羽を広げた一羽の鳥が、なんとも言えない線で、素朴に描かれていた。
遥香はその絵を見た瞬間、胸の奥が締めつけられるのを感じた。
懐かしい、とも違う。
悲しい、とも違う。
でも確かに、“この絵には意味がある”と、身体が訴えてくる。
手が、小さく震える。
「……なんで、こんなに、泣きたくなるの?」
気づけば、指先に涙が伝っていた。
意味も理由もわからない。ただ、込み上げてくる感情があった。
この絵を、誰かが描いた。
その“誰か”を、私は――知っていた。
でも、名前も、顔も、声も、なにも思い出せない。
ただ、この鳥の絵だけが、心の奥にしがみついていた。
遥香は、その絵をそっとカバンにしまった。
大事なものを扱うように、丁寧に、慎重に。
◆
日曜日の午後。
晴れていた。
空が高く、風がやわらかかった。春そのもののような一日。
家にいても落ち着かず、遥香はなんとなく外へ出た。
行き先は決めていなかった。ただ、足が自然と動いた。
いつもの駅前を通り過ぎ、いつもなら曲がる角を直進して――気がつけば、知らない道を歩いていた。
知らないはずなのに、足取りは不思議なほど迷いがなかった。
そして辿り着いたのは、小さな公園だった。
花壇の隅に、チューリップが揺れている。
ベンチが二つ。砂場と、古いブランコ。
ありふれた公園だった。
けれど――遥香の身体は、まるでこの場所を“待っていた”かのように、小さく震えた。
胸の奥が熱くなる。喉がきゅっと詰まる。
涙が浮かびそうになる。意味は、わからない。
ただ一つ、確かに言えることがある。
――この場所で、私は、誰かといた。
それは記憶じゃない。
でも、感情が、風景と重なっている。
ベンチに近づく。ゆっくりと座る。
空を見上げる。
そして、目を閉じる。
風の音が、耳の奥で揺れた。
――その風の中に、誰かの声があった気がした。
「……誰?」
遥香は、呟いた。
でも、返事はなかった。
それでも、彼女は、微かに笑った。
名前も思い出せない。
顔も、声も、記憶にもいない。
だけど、今ここにこうして来たことが、何よりの答えのような気がした。
きっと、忘れた誰かがここにいた。
そして、その誰かと、この空を見たのだ――と。
風景が、ゆっくりと薄れていく。
輪郭が曖昧になり、色彩が剥がれていき、音が遠のいていく。
まるで夢から目覚めるときのように、現実の感覚が少しずつ剥がれ落ちていく。
けれどこれは夢ではない。
ユウトはわかっていた。
これは、“終わり”だった。
――自分が、自分でなくなっていく。
MNコードの自己定義構造が、静かに崩壊していく。
記憶を売った状態で構築された“存在モデル”は、完全な記憶の再統合により矛盾を起こし、いま静かに、確実に、自己消失プロトコルを進行させていた。
誰かと話そうとしても、声が届かない。
すれ違う人の目には、自分の姿が映っていない。
足音が響かず、影が地面に残らない。
少しずつ、世界との接点がなくなっていく。
それは恐ろしいことのはずだった。
けれどユウトは、不思議と静かだった。
怖くなかった。
なぜなら、彼の中には――最後まで、あるひとつの想いが残っていたから。
遥香。
その名前を、声に出してみる。
「……遥香」
音が、風に消える。
けれど確かに、口の中に、彼女の名の形が残った。
その響きだけが、まだ“生きている”と感じさせてくれる。
彼は、小さな公園のベンチに座っていた。
あの夜、ふたりで並んで座った、あの場所だ。
目の前には、何もない。
でも、心の中には、確かに彼女の笑顔があった。
「遥香……覚えていなくても、いいんだよ」
そう呟いたとき、彼の指先がふわりと消えた。
風に溶けるように、形を失っていく。
それでも彼は、笑っていた。
「君がどこかで笑っていれば、それで、十分だよ」
思い出してほしいとも、戻ってきてほしいとも、もう願わなかった。
ただ、自分が愛した人が、幸せでいてくれれば、それでよかった。
記憶はすべて戻ったのに、自分という存在はそれに耐えられなかった。
それでも、遥香のことだけは――忘れたくなかった。
そう思った瞬間だった。
胸の奥で、何かが静かに灯るような感覚があった。
記憶でも、思考でもない。
もっと根源的な、意志にも似た感覚。
それはまるで、“願い”だった。
――たとえ、君の中から僕の記憶が消えても。
――たとえ、名前すら残らなくても。
何かひとつ、心の奥に残ればいい。
たとえば風の匂いでも、空の色でも。
たとえば、このベンチの感触でも。
たとえば、一羽の鳥が飛び立つ姿でも――
そうすれば、君はきっと、
“どこか”で、僕にたどり着いてくれる気がした。
ユウトの輪郭が、ゆっくりと空気に溶けていく。
背中、肩、腕、指、声――ひとつひとつが、この世界から静かに消えていく。
でも最後まで、彼の心の中にだけは、遥香の姿が、はっきりと残っていた。
いつか、再び。
どんなかたちでもいい。
もし、もう一度だけ、君に会えるのなら――
その想いが、最後の灯として、彼の中に宿り続けた。
朝起きると、鳥の鳴き声が聞こえた。
窓の外、電線の上に一羽の鳥がとまっていた。白い体に灰色の斑点。どこにでもいる、平凡な小鳥だった。
けれど遥香は、なぜかその鳥を見た瞬間、胸の奥がふっと熱くなった。
「……変なの」
それだけ呟いて、カーテンを閉じる。
その感覚は、一瞬で通り過ぎてしまった。理由も、意味も、言葉もなかった。
でも最近、こんなことが増えてきた。
誰かの後ろ姿に目を奪われたり、ふと風が吹いた瞬間に涙が出そうになったり、知らない路地を通りかかって足が止まったり。
どれも些細なことばかり。
だけど、何かが胸に引っかかる。小さな小さな、棘のようなものが、心の奥に刺さったまま抜けない。
◆
その日の授業中。数学のノートの片隅に、いつの間にか絵を描いていた。
一羽の鳥。羽ばたいている、空に向かって。
「……」
どうしてこの絵を描いたのか、自分でもわからなかった。
けれど、描き終えたあとでじっと見つめていると、胸がぎゅっとなった。
懐かしいような、寂しいような、あたたかいような……説明できない感情。
「これ……」
見たことがある気がした。
いつ、どこでかは思い出せない。
それでも、確かにこの絵は“知っている”。
その夜、机の引き出しを開けた。
昔のノートや、写真、メモ――その中に、小さな紙片が一枚だけ混じっていた。
それは以前拾った、鳥の絵だった。誰が描いたのかも、いつ手にしたのかも思い出せない紙。
その紙を見た瞬間、遥香の手が微かに震えた。
――あのノートの絵と、同じだ。
「……これ、私じゃない。……でも、どうして持ってるの?」
声に出すと、胸の奥に冷たい風が吹き抜けたような気がした。
そのあとで、じんわりとあたたかさが戻ってきた。
誰かが描いた絵。
誰かがここに残していった。
その“誰か”のことを、自分は知っていた。……気がする。
名前は出てこない。顔も、声も、全部、霞んでいる。
でも、心だけが、覚えていた。
“あの人と、この空を見た気がする”――
遥香はその紙を、手帳の中にそっと挟んだ。
捨ててはいけない気がした。これは、何かをつなぐ鍵のような気がした。
◆
日曜日の午後。ふらっと外に出た。
予定があったわけではない。誰かと会うわけでもない。
けれど、体が自然と動いていた。
行き先も知らないまま、電車に乗り、バスに乗り換え、歩道を歩く。
季節は、確実に春へと向かっていた。
街路樹が芽吹き、ベンチには子どもたちの笑い声が響いている。
遥香は歩いた。
ただ、歩いた。
何かを“思い出す”のではなく、
“感じる場所”に、導かれているような感覚だった。
そして――足が止まった。
目の前に、古い公園があった。
白い砂利と、青いベンチと、少し傾いたブランコ。
「……ここ、知らないはずなのに」
けれど、足が勝手に動く。
ベンチの前に立ったとき、遥香は立ち尽くしてしまった。
胸の奥が、ズキンと鳴った。
言葉が出なかった。涙も出なかった。
ただ、“ここにいた”という感覚だけが、はっきりとあった。
誰が?――わからない。
いつ?――思い出せない。
けれど、確かに“誰か”とここで空を見上げていた。
風が吹き、沈黙の中で手をつないでいた――そんな気がした。
遥香は、ベンチに腰を下ろし、空を見上げた。
鳥が、一羽、飛んでいった。
その姿に、また胸が熱くなった。
「……誰かが、ここにいた気がする。
大事な人だった……ような気がする」
空は晴れていた。けれど、目の奥に滲んだ涙が光を反射して、景色が少し滲んで見えた。
まだ、思い出せない。
まだ、名前もない。
でも確かに、“何か”が近づいている。
――あと少し。
――ほんの少しで、何かが届く気がする。
知らない人なのに、なぜか心が静かになった
もう、何日通っているのかわからなかった。
遥香は今日もまた、同じ公園へと足を運んでいた。
何を期待しているのか、自分でもよくわからない。
ただ、あの場所にいると、心が少しだけ落ち着く。それだけだった。
特別な思い出があるわけでもない。
誰かと約束をしているわけでもない。
けれど、ここに来ると、頭の中のざわめきが少しだけ静かになる気がした。
心の中の、“名前のない空洞”がほんのわずかにあたたかくなるような、そんな気がした。
公園には、午後の光が斜めに差し込んでいた。
木々の葉が優しく揺れ、ブランコの鎖がかすかに鳴っている。
ベンチに目を向けたとき、遥香は少しだけ足を止めた。
誰かが、座っていた。
若い男性だった。姿勢はやや前屈みで、視線は足元に落ちている。
顔立ちは、はっきり見えなかった。
けれど、なぜか――ほんの一瞬だけ、
遥香の胸の奥に、説明のできない感覚が広がった。
思い出そうとしても何も出てこない。
懐かしさとも違う。ただ、“わずかに波立つ水面”のような気持ち。
「……なんで、ちょっと泣きそうになったんだろう」
自分でも驚いた。
でも、その理由はわからないままだった。
足を止めたまま立っているのも変だと思い、遥香は静かにベンチに近づいた。
数歩離れた位置で、彼に向かって小さな声をかけた。
「あの、ここ……座ってもいいですか?」
彼は、少し驚いたように顔を上げた。
黒い髪が風に揺れ、目元がやさしく笑った。
「あ、はい。もちろん。どうぞ」
声は、落ち着いていた。
特に印象に残るような声ではなかったのに、なぜか耳に残った。
遥香は、少し間を空けてから、その隣に腰を下ろした。
ふたりの間には、人ひとり分くらいの距離。
でも、どちらからともなく、ふわりとした沈黙が降りてきた。
気まずくもなく、必要以上に気を使うでもなく。
それは、初対面にしては不思議な空気だった。
「いい天気ですね」
彼がぽつりと言った。
「……そうですね。気持ちいいです」
それだけの、ありふれた会話だった。
なのに、遥香の中には、ぽつんと“何か”が残った。
名前も、過去も、知らない人。
でも、どこかで何かを共有したことがあるような――そう思ってしまうのは、ただの思い込みだろうか。
「こういう静かな場所、落ち着きますよね」
遥香が言うと、彼はうなずいた。
「はい。最近よく来てるんです。特に理由はないけど……なんとなく」
「私も……同じです。たぶん、似たような感じ」
ふたりはまた、笑った。小さな笑い。
それが不思議と、心に引っかかった。
しばらく沈黙が続いたあと、遥香は小さく息をついて、ふと聞いてみた。
「……お名前、聞いてもいいですか?」
彼は、一瞬だけ驚いたような顔をして、それから答えた。
「ユウトって言います」
遥香はその名前を聞いた瞬間、ほんの一秒、頭の奥がふっと揺れた。
でも、それはすぐに消えた。風の音と一緒に、遠くへ流れていった。
「私は、桐野遥香です」
「遥香さん……いい名前ですね」
「ありがとう。ユウトさんも」
名前を口にした瞬間、どこかで聞いたような気もしたけれど、すぐにその感覚は溶けてしまった。
残ったのは、この場所に、今この人といることが、なぜか“自然に思える”ことだけだった。
午後の光がさらに傾いて、二人の影が地面に伸びていく。
風がまた吹いて、木々の葉がカサカサと鳴った。
「……また来ようかな、ここ」
遥香がつぶやいた。
「うん。僕も……たぶん、また来ます」
そう言って、ふたりは小さく笑い合った。
特別な何かが起こったわけではない。
記憶を取り戻したわけでも、劇的な運命を感じたわけでもない。
でも、出会えた。
それは、何よりも奇跡に近いことだった。
この先、また会うことがあるかどうかもわからない。
それでも今日、名前を知って、すこし話をして、ふたりは並んで空を見上げた。
雲が、ゆっくりと流れていた。
空には、一羽の鳥が、小さく飛んでいた。
ふたりが再び公園で会ったのは、ほんの数日後のことだった。
それは偶然に見えて、偶然とは思えないような、そんな出会いだった。
待ち合わせの約束はなかったのに、同じ時間、同じ場所に、ふたりはまた顔を合わせた。
「こんにちは」
「……こんにちは。また会いましたね」
互いに目を見て、少し笑った。
でも、その笑顔にはどこか小さな“動揺”がにじんでいた。
それが何なのか、ふたりともまだわからない。だけど、確かにそこにあった。
「なんだか、今日もここに来るような気がしてました」
遥香が言うと、ユウトは照れたように頷いた。
「僕も、そんな気がしてました。……変ですよね」
「変じゃないです。……不思議ですけど、悪くないです」
いつも通りの会話だった。
でも、どこかでそれが“ただの日常”とは違っていた。
ふたりで並んでベンチに座ったあと、少しだけ風が強く吹いた。
木の葉がざわざわと揺れ、近くのベビーカーを押していた親子の会話が風に流された。
ユウトはその様子を見て、ふと口を開いた。
「……この感じ、なんか……」
「ん?」
「いや……なんでもないです。ちょっと、変なこと思い出しそうになっただけ」
「思い出しそうに、って……?」
「よくわからないんですけど……この場所の感じと、この風と……あと、君の隣に座ってること。全部合わせると、なんか…… déjà vu みたいな。夢で見たような、そんな感覚になるんです」
遥香も、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がぴくりと反応した。
その感覚に名前はなかった。ただ、どこかで聞いたような、言われたような、そんな“既視感”。
「わかる、かもしれない」
遥香は静かに答えた。
「私も……時々あるんです。
とくに最近。何かに近づいてる感じがして。……なのに、はっきり思い出せない」
ユウトは小さく頷いた。
目はどこか遠くを見ていた。
「……例えばね」
「うん?」
「誰かを、助けたことがある気がするんです。ずっと昔、咄嗟に手を伸ばして、誰かを守った。……その人の名前も、顔も、なにも覚えてないのに……その“重さ”だけが、時々、腕の中に蘇ってくるんです」
遥香は、はっとしてユウトの顔を見た。
同時に、胸の奥が熱くなった。
自分も知らないはずの“感覚”が、そこにあった。
転びかけたときの、あの一瞬の浮遊感。
そして、誰かの腕に引き寄せられたときの、やわらかくて、必死な力強さ。
でも、やっぱり思い出せなかった。
それが“ユウト”だったとは、わからない。
ただ、遥香は言った。
「きっと、その人……あなたに、すごく感謝してると思います」
ユウトは、少し微笑んだ。
「そうだといいな。でも、たまに思うんです。
“その人が、今、どこかで幸せでいてくれたら、それだけでいいな”って」
遥香は、言葉を失った。
まるで、それは自分のことを言われているような気がした。
そのあと、しばらく無言で空を見上げていた。
沈黙は心地よかった。重くない。むしろ、呼吸のように自然だった。
風がふと、遥香のポケットの中の紙片を揺らした。
あの、小さな鳥の絵。いつも持ち歩いている、それだけが“心にひっかかる何か”。
ユウトがそれに気づき、目を向けた。
「それ……何かの絵ですか?」
「あ……これ。うん、前に拾った紙です。……誰かが落としたのか、置いていったのかも。
わかんないけど、なんとなく、ずっと持ってて」
ユウトは、その絵をのぞき込んだ。
白い紙に、羽ばたく鳥の鉛筆画。
そしてその絵を見たとたん、彼の眉がわずかに動いた。
「……これ……僕、描いたことあるような気がします」
遥香は、少し驚いた表情で彼を見る。
「え?」
「いや……でも、いつかは思い出せない。子どものころか、夢の中か……それとも、誰かのために描いたのか……。でも、この羽の描き方とか、空のラインとか、妙に手になじむというか……」
遥香は、胸の中で何かがぴたりと合わさる音を感じた。
言葉では説明できない。
でも、“その鳥の絵を描いたのが彼”だったということが、なんだかすごく、しっくりきた。
ふたりはまた、空を見た。
この空の下で、いつかふたりは出会っていた。
事故のとき、路地裏の片隅、記憶を売る少年と、記憶を買い戻す少女として。
けれどいまは、ふたりとも知らない。
ただ、“何か”を感じているだけ。
それでも、出会ってしまった。
そして、同じベンチに座って、鳥の絵を見て、記憶のような風を感じている。
それは、偶然ではなかった。
伏線は、心に残ったままだった。
だからきっと、またここから始まる。
記憶がなくても、ふたりはもう一度、つながっていく。
春の終わりを告げる風が、公園の空をゆるやかになぞっていた。
ベンチの上で、ふたりは並んで座っていた。
何を話すでもない。ただ、空を見て、風を感じていた。
ユウトは、手元のスケッチブックを開いていた。
鉛筆でゆっくりと描かれていくのは――また一羽の鳥だった。
遥香は、それをじっと見ていた。
紙の上で生まれていく線。羽のひらき、空の白さ、風の抜け道。
まるで、そこに“過去”の記憶がもう一度浮かび上がるようだった。
「……やっぱり、君だったのかもしれないな」
ユウトが、ぽつりと言った。
視線は紙の上に落としたままだった。
「え……?」
「……君を、昔どこかで助けた気がするって言ったでしょ。
あの感覚……ずっと腕の中に残ってて。
今日、こうして並んで座ってるのを見てたら……“ああ、やっぱり、この人だったのかも”って」
遥香は、その言葉をすぐには受け止められなかった。
でも、胸の奥で小さな“鐘の音”のようなものが鳴った気がした。
「……私もね、わかんないの。ほんとに、記憶は何もないの。
でも、“あなたの名前を聞いたとき”と、“この鳥の絵を見たとき”と、“このベンチに並んで座ったとき”……どれも、胸の奥がすごく痛くて、でも、すごく落ち着くの」
風がふたりの間を抜けていく。
春の終わり、そして夏の入り口の匂いがした。
「なんだろうね」
ユウトが言った。
「覚えてないのに、全部知ってる気がするって、ちょっと変」
「……でも、私は信じたい。
“全部忘れても、また会える”って。そういうことがあるんだって。
だって、私たち、ほんとに偶然に出会ったのに、今こうしてる」
ユウトは笑った。とても優しい笑顔だった。
「たしかに。
出会えないはずだったのに、出会った。
名前も記憶もないのに、隣にいる。
たぶん……もう一度、始めていいってことなのかも」
遥香は、ゆっくりと頷いた。
目を閉じると、心のどこかに残っていた重たい扉が、ふわりと開いた気がした。
なにも見えなかったけど、なにもなくてよかった。
そこにあるのは、新しい風だけだったから。
◆
その日の帰り道。
ふたりは公園を出て、何気ない会話を交わしながら、並んで歩いた。
少し歩いたところで、古い自動販売機のある細い路地を通りかかった。
遥香の足が、ふと止まった。
「……ここ、なんか、来たことがあるような……」
小さな声。ユウトも立ち止まって、その路地を見た。
「あ……僕も、かも。なんだろう」
ふたりは顔を見合わせた。
そこに、確信も説明もなかった。
けれど、**“この路地がふたりにとって大切だった”**ことだけは、言葉にせずとも、肌が覚えていた。
「なんか、売ってた気がするな」
ユウトが冗談めかして言う。
「売る……何を?」
「さあ、たとえば……記憶とか?」
遥香は笑った。
でもその笑顔の中に、ほんの一瞬だけ、目の奥に光が差した。
何かが浮かんできそうだった。
けれど、すぐに消えていった。
それでよかった。
「それ、物騒すぎません?」
「でしょ? 商売にはならなそうだよね」
ふたりはまた笑い合った。
歩き出す。今度は、同じ方向へ。
◆
次の日も、次の週も、遥香は公園に足を運んだ。
ユウトもまた、何も言わずに同じベンチにいた。
ふたりは少しずつ、会話を重ね、季節を進め、互いの“いま”を知っていった。
記憶の再生ではなく、関係の再構築として。
もしかしたら、何度目かの“はじめまして”なのかもしれない。
でも、そんなことはどうでもよかった。
大切なのは、また出会えたということ。
それだけが、ふたりにとっての真実だった。
ある日、ふたりはまたベンチに並び、空を見ていた。
一羽の鳥が、静かに空を横切っていった。
「この鳥、どこへ行くんだろうね」
ユウトがぽつりとつぶやいた。
「どこか、遠くへ。でも、また戻ってくると思う」
「なんで?」
「なんとなく。……帰ってくる場所がある鳥だと思うの」
ユウトはその言葉を聞いて、なにも言わずにうなずいた。
ふたりはまだ、記憶を取り戻していない。
それでも、ふたりの心は、静かに再会していた。
そしてまた、物語がはじまっていく。
(完)
✦あとがき✦
物語はここで一度終わりますが、
ふたりの関係はこれからも続いていきます。
記憶を失っても、心の奥に残っていた“光のかけら”が、ふたりをもう一度出会わせたように――
名前を失っても、場所を忘れても、また出会える。
そんな優しい世界の可能性を、この物語が伝えられていたら幸いです。
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