登場人物紹介
◆ 朝倉 蓮(あさくら・れん)
年齢:20歳(大学2年)
性格:勘が鋭く、繊細。誰よりも他人の変化に敏感だが、それを見抜いたことを表に出さない優しさも持っている。
◆ 高梨 千景(たかなし・ちかげ)
年齢:20歳(大学2年)
性格:理知的で穏やか。芯は強く、誰よりも相手の心に寄り添う力がある。
◆ 管理者(観測機構)
外見:10歳ほどの少女の姿
性格:無感情に見えるが、観測者に対しては冷静に必要最低限の情報だけを与える存在。
「春と、最初の笑顔」
四月の風は、花の香りをほんの少しだけ含んでいた。
大学の並木道には、風に散った桜の花びらが舞い、地面に柔らかな模様を描いている。
陽射しはやわらかく、まるでガラス越しに差し込む光のように、輪郭をぼかして春を染めていた。
朝倉蓮は、その中を歩いていた。
首からぶら下げたカメラのストラップが、歩くたびに胸元で小さく揺れる。
何を撮るわけでもない。けれど彼は、こうして歩いているだけで、何かを残したくなる瞬間に出会える気がしていた。
木漏れ日の差す図書館前のベンチ――
その近くに、一冊の文庫本が落ちていた。
手に取ると、紙の質感は少し柔らかくて、使い込まれていることがすぐにわかった。
カバーの端はわずかに擦れていて、ページの間に細い栞が挟まっている。
「……誰かの忘れ物、かな。」
独り言のようにそうつぶやき、落とし物センターに届けるべきかと思案する。
そのとき、背後から、静かに声がかかった。
「それ、私のです。」
振り返ると、声の主が立っていた。
長い黒髪を後ろで束ね、白のブラウスをさらりと着こなした女性。
陽の光を透かした彼女の姿は、どこか淡く、周囲の景色に溶け込むようだった。
凛としていながら、どこか柔らかな気配をまとっている。
「落としてしまっていたようで……ありがとうございます。」
彼女は丁寧に頭を下げた。
受け取るその手は少し冷えているようで、しかしその動作はとても丁寧だった。
蓮は無意識に少し言葉を探してから、口を開く。
「……いえ、ちょうど届けようと思っていたところです。」
「そうだったんですね。ご親切に、すみません。」
そう言って、彼女は小さく微笑んだ。
その笑顔はどこか、ひどく懐かしいような気がした。
自分はこの人と、どこかで会ったことがあっただろうか?
そんなことを考えてしまうほどに、自然な空気だった。
「えっと……もしかして、文学部の方ですか?」
「はい。あ、もしかして……文庫本でそう思われましたか?」
「なんとなく、雰囲気が。あと、持たれていた本も。」
彼女は少し照れくさそうに、唇の端を上げた。
その仕草に、蓮はなぜか心が落ち着くのを感じた。
だが、その理由は自分でも分からない。
「私、文学部で二年生をやっています。高梨と申します。高梨千景です。」
「……朝倉です。朝倉蓮といいます。物理学部です、同じく二年です。」
互いに軽く会釈を交わし、ほんの短い沈黙が流れる。
その沈黙さえ、蓮にはどこか心地よく感じられた。
春の風が通り抜け、木々の枝がそっと揺れる。
「カメラ、お好きなんですか?」
ふと、千景が尋ねた。
「はい、まあ……趣味みたいなもので。撮っておかないと、忘れてしまいそうな気がして。」
「忘れてしまうのが、怖いんですか?」
その問いに、蓮は少し驚いた。
けれど、不思議と嫌な気はしなかった。
いや、それどころか――胸の奥を、そっと触れられたような気がした。
「……たぶん、そうかもしれません。」
素直にそう言えたのは、千景の声のトーンが、とても静かだったからだ。
問い詰めるでもなく、追いかけるでもなく。
ただ、そっとそこに置かれた言葉のように。
「写真って、“その瞬間”を閉じ込めるみたいですね。」
「はい。でも、不思議です。閉じ込めたつもりでも、何が大切だったかは、写真じゃ伝わらないこともあって……。」
「でも、撮ることで、自分には残るんですよね。」
彼女のその言葉に、蓮は思わず目を見張った。
「……そうですね、たしかに。」
そのとき、蓮の胸に、小さな違和感が宿った。
いや、違和感というにはあまりに柔らかすぎて、それはただの“既視感”にも似ていた。
――この人の声、前にも聞いたことがあるような。
――この風景、前にも彼女と見たような。
そんな感覚。
だが、それはすぐに春の風に流されて、輪郭を失っていった。
「朝倉さんは、撮るのも上手そうですね。」
「……ありがとうございます。でも、そんな、上手とかじゃなくて、ただ、残したいだけです。」
「その“残したい”って気持ち、大事だと思います。」
言葉は丁寧で、節度がある。
けれどどこか、それ以上にあたたかかった。
時間にすれば、ほんの数分だった。
けれど、蓮には、何か深いものが染み込んでくるような出会いだった。
「それでは、失礼します。」
千景は軽く会釈をして、図書館の階段を上っていく。
蓮はその背中を、しばらく見つめていた。
風が吹いて、彼女の髪が揺れる。
その様子が、まるで映画のワンシーンのようで――蓮は、思わずシャッターを切った。
――“今”を残したくなるような、そんな時間だった。
そして蓮は、心のどこかで小さく思った。
「……また、会えるといいな。」
それが、すべての始まりだった。
蓮は、講義帰りの階段に座っていた。
午後の陽が斜めに差し込んで、建物の影が細長くのびている。
バッグから取り出したノートの端には、走り書きのようなメモが散らかっていた。
ノートを開いてみたものの、手は進まず、気づけばぼんやり空を見ていた。
空気がゆるんで、あたりの音が少しだけ遠く感じる。
春特有の、そんな午後。
階段の下、ほんの10メートルほど先の植え込みに、誰かの姿が見えた。
白いシャツの袖が風に揺れて、ブラウンのスカートの裾がふわりと踊る。
本を抱えた細い腕が、静かにページをめくっている。
――高梨千景だった。
彼女はこちらに気づいていない。
図書館の方から歩いてきて、空いていたベンチに腰を下ろしたばかりのようだった。
声をかけるか迷っていると、千景のほうが先に気づいた。
「あ……こんにちは。」
少し眩しそうに目を細めながら、彼女は立ち上がって蓮に軽く頭を下げた。
蓮も反射的に立ち上がる。
「こんにちは。……またお会いしましたね。」
「はい、なんだか……昨日も図書館でしたし、すこし驚きました。」
「僕、ここよく通るんです。建物の影がちょうどよくて、少し休憩するのにちょうどよくて。」
「たしかに、風も通りますし、静かでいい場所ですね。」
千景はそう言って、階段の端の空いている段に視線を向けた。
「……少し、座ってもいいですか?」
「もちろんです。」
ふたりは間を空けて腰を下ろす。
話しかけるタイミングを測るように、互いに少しだけ沈黙する。
だが、それは不快なものではなく、心を落ち着ける余白のようでもあった。
「朝倉さんは、午後は講義だったんですか?」
「はい。専門のゼミで……出席はしたんですけど、半分は意識飛んでました。」
「春は、眠くなりますよね。」
「本当に。ぼーっとしてる間に終わってました。」
千景は、短く笑った。
そして、抱えていた本をそっと膝の上に置く。
その仕草が、どこか静かで、蓮は目を逸らしたくなった。
見とれていたわけではない――ただ、その静けさに、自分の心がざわつくのが分かったからだ。
「そういえば……昨日も本、読まれてましたよね。」
「あ、はい。読むのは好きなんです。……というか、読むしかしてないですね、最近は。」
「読むしか……?」
「うまく言えないですけど、人と話すの、得意じゃないんです。だから本に逃げてるところがあるのかもしれません。」
それは、自嘲ともとれる言葉だった。
だが、千景の声はまっすぐだった。
飾らず、弱さをそのまま見せるような話し方。
蓮は少しだけ考えてから言った。
「それ、ちょっと意外でした。」
「そうですか?」
「はい。高梨さんって、落ち着いてて、誰とでもちゃんと話せる人だと思ったので。」
千景は、一瞬だけ言葉に詰まったように見えた。
だが、すぐに「そう見えるようにしてるんです」と笑った。
「苦手だからこそ、丁寧に話すようにしてるのかもしれません。」
蓮は、彼女の言葉を聞きながら、自分にも似たところがあるなと思った。
「……僕も、人と話すとき、つい周りの空気を気にしてしまいます。
それでちょっと疲れるときがあって。」
「分かります。それって、うまく言えないけど……“誰にも迷惑をかけたくない”みたいな気持ちが強くないですか?」
蓮は目を丸くした。
その言葉は、まさに彼の内側の、深いところにあった思いそのものだったから。
「……なんで、分かるんですか?」
「なんとなく、です。」
それ以上は言わなかった。
ただ、千景の声のトーンには、“わかろうとしてくれている”空気があった。
それが、心にすっと染みてきた。
風が吹いて、ページが一枚だけひらりとめくれた。
千景がそれをそっと押さえた指先が、春の光を反射して、かすかに透けて見えた。
「……じゃあ、また偶然お会いするかもしれませんね。」
蓮が言うと、千景はうなずいた。
「きっと、また。」
ただそれだけだった。
でも蓮は、不思議とその言葉がしっかりと胸に残った。
まるで、“そうなることが決まっている”みたいな響きに思えたから。
春の雨が、夜のうちに降ったらしい。
朝の空気には少しだけ水の匂いが残っていて、アスファルトには濃淡のある染みが広がっていた。
桜の花びらもところどころ濡れていて、歩道の端に寄り添うように張り付いている。
朝倉蓮は、少し肩をすくめながら、大学の正門をくぐった。
空は雲に覆われ、空気は少しひんやりとしている。
けれどそんな空模様とは裏腹に、彼の胸の中は、ほんの少しだけ晴れやかだった。
高梨千景と、また話せる気がしていた。
別に約束をしたわけでも、何かを取り決めたわけでもない。
でも、“また会う”ことが自然に思えるほどの、落ち着きがそこにはあった。
「……おはようございます。」
声がして、蓮は顔を上げた。
建物の軒下、朝の空気に溶けるような落ち着いた佇まい――
そこにいたのは、まさにその人だった。
白いカーディガンに淡いグレーのスカート。
濡れた地面を避けるように、手に本を持ったまま、建物の壁にもたれている。
「おはようございます。……今、来たところですか?」
「はい。雨、思ったより長く降ってたみたいですね。」
「ええ。道路がまだ濡れてるから、滑らないように気をつけてくださいね。」
「ありがとうございます。……高梨さんも。」
蓮は自然と歩み寄り、隣に立つ。
ほんの短い時間でも、それが妙に心地よかった。
「このあと、講義ですか?」
「はい。文学史のゼミがあるので、少し早めに来ました。……朝倉さんは?」
「物理学入門の復習講義です。内容は……たぶん半分寝ると思います。」
千景がふっと微笑んだ。
「そういう日、ありますよね。」
蓮も少しだけ笑って、鞄を持ち直す。
視線の先、傘立ての横に、小さな紙袋が落ちていた。
「……あれ、落とし物かな?」
千景が拾い上げようと身をかがめたとき、蓮は反射的に手を伸ばした。
「あ、僕が……」
「大丈夫です。……あ。」
その瞬間、指先がかすかに触れ合った。
紙袋は中身が軽く、お菓子の箱か何かのようだった。
二人の手がすれ違い、その拍子に袋から何かが転がり出た。
小さなクッキーのパッケージが、足元で止まる。
「あ……すみません、私……」
「いえ、大丈夫です。」
蓮が手を伸ばして拾い上げたそのとき、
千景がさっとハンカチを差し出した。
「……汚れてしまっていたら、これ、使ってください。」
「ありがとうございます。……なんだか、すみません。」
「いえ、こういうの、よくあることですから。」
彼女の言葉は、どこか“知っている”ような、そんな響きを帯びていた。
蓮はほんの少しだけ、それに引っかかりを感じたが、すぐに流してしまった。
いつも通りの会話。
自然で、穏やかで、でも――何か“整いすぎている”。
そう感じる自分が、少し不思議だった。
「朝倉さんって、よく人のこと、見てますよね。」
「え?」
「この前も思ったんですけど……たとえば誰かが落としたものとか、
話してる相手の気分の変化とか。なんとなく、そういうところに気づく人だなって。」
蓮は驚いた顔をしたあと、わずかに視線を落とした。
「……あまり、得じゃない性格ですよ。」
「そうなんですか?」
「気にしすぎて、自分ばっかり疲れてること、けっこうあるので。」
千景は少しだけ、目を細めた。
まるで、そう言うことを、どこかで知っていたような表情で。
「でも、それを“悪いこと”だとは思いません。」
蓮は、返す言葉を探しながら、ふと首を傾けた。
「高梨さんは……なんでそんなふうに言えるんですか?」
千景は少しだけ間を置き、
それから小さく笑ってこう言った。
「朝倉さんが、ちゃんと人のことを大事にしてる人に見えるから……でしょうか。」
そうして、ふっと視線を空へ向けた。
いつの間にか、雲の切れ間から陽射しが差し始めていて、木々の葉がきらめいている。
「……また、こうしてお話できて、嬉しかったです。」
「僕も、です。」
そのやりとりは、穏やかで、なんでもないようで――
でも、蓮の胸の奥に、確かなものを残していた。
彼女といると、自分の“弱いところ”をそのままにしていられる気がする。
そんな感覚が、静かに心に根を張り始めていた。
蓮はその日、講義でノートを取る手を何度か止めては、
ふと“あの笑顔”を思い出していた。
どこかで見たことのあるような、でも思い出せない笑顔――
まるで記憶の裏側に、ずっとあったかのような、そんな感覚とともに。
「風がめくる言葉」
昼過ぎのキャンパスには、少し強めの風が吹いていた。
新緑をまとい始めた桜の枝が大きく揺れ、舗道に敷かれたベンチの背もたれが、そのたびにミシミシと音を立てる。
朝倉蓮は、大学の中庭に面したカフェテリアの外席にいた。
テーブルの上には開いたノートと、空になった紙カップ。
手に持ったペンは止まったまま。視線は遠く、どこか宙を彷徨っていた。
ぼんやりとした頭の中に、浮かんでは消えるのは――
やっぱり、高梨千景のことだった。
今日、偶然会えるだろうか。
いや、会えないのが普通で、会えたらただの偶然――
そんな自問を何度も繰り返していた。
「……ここ、失礼します。」
ふいにかかった声。
その声が誰のものかを確認する前に、蓮はもう知っていた。
「高梨さん。」
「こんにちは。」
白いカーディガンにスカート、肩には細めのトートバッグ。
少し乱れた髪を耳にかけながら、千景は静かに蓮の正面の席に座った。
「このあたりでよくお昼を取られるんですか?」
「……いえ。今日は、たまたまです。」
「私もです。」
二人の間にあるテーブルの上を、風がすり抜ける。
千景のノートのページがふわりとめくれ、彼女がそっと手で押さえた。
「風、強いですね。」
「ですね。春なのに、ちょっと冬に戻ったみたいです。」
それだけの会話だったが、不思議とそれで十分だった。
この人と話すと、いつもそうだった。
言葉をたくさん並べなくても、会話が成立するような、不思議な感覚。
「……あの、ひとつ聞いてもいいですか?」
蓮が言うと、千景は少しだけ身を乗り出すように顔を傾けた。
「はい、どうぞ。」
「僕たち……どこかで会ったこと、ありますか?」
千景の手が、一瞬だけ止まった。
風の音が、妙に大きく聞こえる気がした。
「……いえ。たぶん、ないと思います。」
「ですよね。……すみません、変なこと言って。」
「いえ、変じゃないです。」
彼女の声は、いつも通り穏やかだった。
けれど、蓮にはその返事がほんの少しだけ“間延び”したように聞こえた。
なぜだろう。
嘘をつかれたわけじゃない。
でも、なにかが――合っていない気がした。
「よく“人の顔を覚えるのが得意”って言われるんです。
だから、誰かに似てるとか、そういうのじゃなくて……“知ってる”って思ってしまって。」
「……そういう直感って、ありますよね。」
千景は目を伏せて、静かに頷いた。
それは肯定でも否定でもなく、ただその場を“受け止める”ような反応だった。
蓮はそれ以上深くは聞かなかった。
けれど、心のどこかに引っかかりは残っていた。
――この人のことを、やっぱりどこかで知っている気がする。
「……変なことばっかり言ってすみません。疲れてるのかもしれないです。」
「疲れてるときって、ふだん思わないことを考えたりしますから。」
「はい。でも、なんか……高梨さんと話すと、落ち着くんですよね。」
千景の指が、ノートの角をゆっくりと撫でた。
ほんのわずかに笑みを浮かべて、彼女はこう言った。
「私も、そうです。」
言葉数は少ないのに、その一言には不思議な重みがあった。
そのあと、ふたりは他愛のない話を少しだけ交わした。
好きな音楽、講義の話、学食のカレーが前より辛くなったこと。
それらはすべて、“普通”の大学生同士の会話だった。
けれど、蓮は知っていた。
この時間が、何か特別なものの上にそっと積み重なっていることを。
気づいていないだけで、自分たちは何かの“途中”にいるのではないか――
そんな、根拠のない予感を胸に抱えながら。
「……今日は、ありがとうございました。」
「こちらこそ。」
そう言って、千景は立ち上がり、
そっと蓮に軽く会釈をして、カフェテリアをあとにした。
蓮はその背中をしばらく見つめていた。
春の風が、またページをめくっていく。
ノートの上に、彼女が残した体温が、まだそこにある気がした。
午後の教室は、いつもよりざわついていた。
講義開始五分前。
ざらついたプロジェクターの光が、教室の前方の白壁をぼんやり照らしている。
学生たちはそれぞれ、友人と話したり、スマホを見たりして気だるげに時間を過ごしていた。
朝倉蓮は教室の後方に座り、手元のノートをめくっていた。
この講義は、グループ発表がある日だった。
苦手なタイプの課題だ。人前に立つことにも、人に評価されることにも、あまりいい思い出がない。
「おい、朝倉ー、今日、お前パート言えるよな?」
前方の席から、グループのひとりが振り返って声をかけてきた。
教室のざわめきが重なって、周囲の視線が一瞬だけ集まる。
蓮は反射的に肩をすくめた。
「うん……大丈夫だと思う。」
そう返した声は、ほんのわずかに震えていた。
前の晩、何度も読み返した原稿。
それでも、「自分の言葉が浮いてしまうかもしれない」という不安は拭えなかった。
発表は、三番目。
前のグループの発表が終わると、拍手の中で入れ替えの動きが始まる。
「次、うちら。朝倉、前に来てくれ。」
蓮はノートとプリントを手に取り、前へ向かう。
壇上のスクリーンにスライドが表示される。
自分の声がこの教室に響くと思っただけで、喉の奥が乾く。
「それでは、始めます。グループ3、テーマは――」
スライドを見て、蓮は一瞬、動きを止めた。
――順番が、違っている。
昨晩送られてきた最新版の構成が反映されていない。
自分の担当部分が前倒しになっており、今話すべき内容とスライドが一致していない。
動揺が、一気に広がった。
視界がかすかに歪む。
言葉が、頭の中から滑り落ちていく感覚。
「……すみません、一度確認を……」
ざわ、という音が、教室の空気を震わせた。
焦る蓮の視界の端――
そのとき、教室の後方に見えたのは、静かに手を挙げる高梨千景の姿だった。
「スライドの構成、誤って表示されています。
事前に配布されたレジュメとは内容が異なっているようです。」
彼女の声は、落ち着いていて、はっきりしていた。
「私も資料を見ていますが、朝倉さんの担当は後半のページです。
たぶん、データの差し替えが反映されていないだけだと思います。」
その言葉が落ち着いた力をもって広がった。
教室にあった緊張が、ふっと緩んでいく。
「……確認します。少しお待ちください。」
教授が操作を変え、スライドが切り替わる。
順番が正しくなり、再び空気が整っていくのがわかった。
蓮は小さく息を吐き、目を伏せた。
誰かが――助けてくれた。
あの一言がなければ、自分はきっと、うまく話せなかった。
失敗した、という感覚が、自分の中に染みついて、また自信を削っていたかもしれない。
発表後。
蓮は足早に教室を出ようとして、廊下で立ち止まる。
そこに、千景がいた。
「……ありがとうございました。」
「いえ。資料を持っていたので、気づいただけです。」
「でも……あのタイミングで、すごいなって思いました。」
千景は少しだけ、目を細めた。
「朝倉さん、すごく焦ってたでしょう?」
「……はい。多分、顔に出てたと思います。」
「少し、そんな気がしたんです。」
彼女の言葉は、過不足がなく、けれど妙に的確だった。
「……高梨さんって、よく周りを見てますよね。」
「そうですか?」
「たぶん……僕と同じタイプなのかもって、ちょっと思いました。」
そう言って蓮は、ほんの少しだけ笑った。
それは、自分を少しだけ許せた笑顔だった。
千景も静かに微笑む。
「人のことをよく見てる人って、自分のことにはちょっと厳しすぎる気がします。」
「……それ、あるかもしれません。」
そんな会話のあと、ふたりはしばらく無言で歩いた。
並んで歩くにはほんの少しだけ距離があり、けれど風は穏やかだった。
蓮の中に、“守られていた”という感覚が残っていた。
それは誰にも言わないまま、静かに胸にしまわれていった。
――彼はまだ知らない。
千景の言葉が、どれほど綿密に“選ばれていた”かを。
金曜日の午後。
授業が終わったあと、蓮はキャンパス裏手の並木道を歩いていた。
風が冷たさを帯び始め、そろそろ春の終わりが近づいていることを肌で感じる。
陽の角度が少しずつ変わり、影が長く地面をなぞっていた。
すこし気を抜くと、ひとりになりたくなる。
いや、正確に言えば――「誰とも関わらずにすむ場所に行きたくなる」と言った方が近い。
蓮にとって、人との関わりは、嫌いじゃないけれど、つかれるものだった。
その「理由」を明確に説明できたことは、これまで一度もなかった。
けれど、今日だけは違った。
「……朝倉くん。」
歩き出した並木道の先で、千景の声が聞こえた。
ベンチに腰かけていた彼女が、静かに立ち上がった。
陽射しが雲の隙間から差し込み、彼女の髪を淡く照らしていた。
「こんにちは。……ひとりですか?」
「はい。ちょっと、寄り道したくて。」
「私も、そんな感じです。」
ふたりは自然と、並んで歩きはじめた。
会話は途切れがちだったが、それが逆に落ち着くような静けさをもたらしていた。
ふと、蓮が口を開いた。
「……僕、小さい頃に、親が離婚してるんです。」
千景は歩みを緩めたが、言葉を挟まなかった。
「父親についていったんですけど、仕事が忙しくて、ほとんど一緒に過ごした記憶がないんですよね。
で、結局、そのあと祖母に引き取られて育ちました。」
それは、蓮にとって“滅多に語らない話”だった。
けれど、千景の隣にいると、なぜか言葉が出てくる。
「……それ以来、たぶん“誰かに頼る”ってことが、ちょっと怖くなっちゃって。
誰かを信じると、またいつかいなくなるんじゃないかって。」
千景は、わずかに顔を向けたが、やはり何も言わない。
ただ、彼の歩幅に合わせて、隣を静かに歩き続けている。
「変ですよね、もう大人なのに。」
「……変じゃないと思います。」
ようやく発せられたその言葉は、淡く、けれど確かだった。
「そういう経験があるからこそ、今の朝倉くんがあるんだと思います。
誰かのことをよく見て、気を遣えて、ちゃんと距離を測れる。
それって、簡単にできることじゃないです。」
「……そんなふうに言ってくれる人、あまりいなかったので。
ちょっと、びっくりしてます。」
「でも、本当のことです。」
千景はそう言って、小さく微笑んだ。
「誰かに頼りたいと思うことがあるなら、たとえば……そうですね、少しだけ、私に頼ってみてもいいですよ。」
蓮はその言葉に、しばらく返事ができなかった。
それは、優しいのに重くなくて。
誘うでもなく、ただ“そこにいる”ことを差し出してくれるような、そんな言葉だった。
「……ありがとう、ございます。」
短く、それだけを言ったあと、蓮は歩き出した。
気づけば、自分でも驚くほど、背中の力が抜けていた。
木漏れ日が、ふたりの影をゆっくりと揺らしていた。
その日、蓮は何も予定のない帰り道を、少し遠回りして歩いた。
いつもより、ほんのすこしだけ、時間をかけて。
隣に人がいてくれることが、こんなにも自然に思えたのは――
どれくらいぶりだったろう。
そして千景は、彼の横顔をちらりと見つめながら、
胸の奥で、そっと確かめていた。
――この人を守りたい、という思いに、もう任務以上の意味があることを。
土曜日の午後。
空は雲ひとつない青に染まり、キャンパスの木々が静かに揺れていた。
講義もない休日の大学は、どこか別の場所のようで、人もまばらで、風の音がよく響いた。
朝倉蓮は、正門前の掲示板に向かって歩いていた。
週明けのゼミ発表の時間割が張り出されるという噂を聞いて、なんとなく気になっていた。
そのときだった。
「……朝倉さん。」
声の主は、高梨千景だった。
キャンパスの片隅、掲示板の脇に立っていた彼女は、ノートを片手に持ちながら、少し驚いたように微笑んだ。
「こんな日に、大学に?」
「はい。発表のスケジュールが張り出されるって聞いて。……高梨さんも?」
「ええ。同じ理由です。偶然ですね。」
自然と、ふたりは並んで掲示板の前に立った。
風が通り抜け、紙がはためく。
千景が片手でそれを押さえながら、小さくつぶやいた。
「……何か、予定より詰まってますね。」
「本当だ……あ、僕のグループ、初日になってる……」
「それは、ちょっと大変ですね。」
蓮が苦笑する。
「また寝不足になりそうです。」
「寝不足は、だめです。」
千景は真顔でそう言ってから、ふっと笑った。
その笑い方が、蓮にはやけに心地よかった。
しばらくそんな何気ないやりとりをしていたあと、蓮はふと千景の手元に視線を向けた。
「それ……手、なにかされてるんですか?」
「え?」
「今、指を……こう、指先を合わせるみたいな仕草してたような。」
千景は少し驚いたように目を見開いて、それから小さく微笑んだ。
「ああ、癖……みたいなものです。意識してるわけじゃないんですけど、たまに無意識に。」
「癖、ですか。」
「はい。意味は、ないんですけど……なんとなく、落ち着くんです。」
蓮はその仕草を、どこかで見たような気がした。
いや、今日が初めてのはずなのに、なぜか記憶の奥に触れるような感覚があった。
「……へえ。面白いですね。」
「朝倉さんにも、そういう癖ってありませんか? 無意識にやっちゃうこととか。」
「あるかな……そういえば、昔は“指切り”ってよくしてた気がします。
小さい頃。意味もわからずに、でも、安心するからって。」
「指切り……?」
「はい。なんか、してると『約束されてる』みたいで。
誰かが、ちゃんとそばにいてくれる感じがして。」
千景はその言葉を聞いた瞬間、わずかに表情を曇らせた。
けれど、すぐにそれを隠すように、穏やかにうなずいた。
「それ、いいですね。」
「……今でも、たまに、してしまうんです。誰かがいるわけでもないのに。」
千景は微かに目を伏せた。
そして、ふたりの間に静かな時間が流れた。
やがて、彼女は言った。
「……また、来週も、大学で会えますよね。」
「はい。もちろん。」
蓮の返事に、千景はにっこりと微笑んだ。
けれどその笑顔の奥に、ほんの一瞬だけ、翳りのようなものがあった。
その日、蓮は帰宅したあと、何を思ったのか、
自分の右手の指先を、そっと左手の指で絡めた。
誰も見ていない、静かな部屋の中で。
子どもの頃のように。
そして、ふと、呟いた。
「……また、会えるよな。」
自分でも気づいていなかった。
その仕草が、千景と交わした何気ない会話から染み込んだものだということに。
それが、記憶ではなく、“感覚”として彼に残り続ける“痕跡”になることにも、まだ。
「99回目の空の下で」
その部屋は、大学の一角には存在しない“場所”にあった。
壁も、床も、天井も――色がない。
ただ無数の曲線と光が交差する、異質な空間。
中心に浮かぶのは、円形の透明なパネル。
そこには、朝倉蓮の姿が映っていた。
今まさに彼は、いつもの通学路を歩いている。
そのパネルの前に立っているのが、高梨千景だった。
彼女の横には、もうひとり――10歳ほどの少女の姿をした者がいた。
まるで人形のように無表情で、けれどその瞳には、宇宙のような深さが宿っていた。
「――99回目の観測、完了ですね。」
少女は無機質な声で言った。
「想定より4.7%穏やかな感情傾向。
安定因子の保たれた範囲としては、もっとも再現性が高い一日でした。」
千景は答えず、ただ画面の中の蓮を見つめていた。
彼がイヤホンをつけ、風に髪を揺らしながら歩く様子。
その何気ない姿に、胸の奥が痛んだ。
「あと1回です。」
少女――管理者は言った。
「次が“100回目”。
最終ループ。
それ以降、この空間は閉じられます。
あなたの任務も、記録も、彼の記憶からも――消去されます。」
「……知っています。」
千景は、ほとんど聞き取れないような声で応えた。
「このルートで、本当に……彼の未来は守られるんですね?」
「現時点で確認されたすべての分岐ルートにおいて、
彼の因子暴走を抑え、感情波形を正常に保てた唯一のラインです。
ただし、1ミリ秒の狂いも許されません。
“気づかれない”ことが、絶対条件です。」
千景は静かに目を伏せる。
――99回の繰り返し。
そのすべてを、「彼の未来が壊れない」一点のために、費やしてきた。
ひとつ前のループ。
第98回目。
そのとき、彼はふとした拍子に、“ループしている”という真実に近づいてしまった。
千景が話した何気ない言葉、
「明日は、また違う日かもしれませんね」
その一言が引き金となった。
蓮は疑いを抱き、
彼女の行動に「意図」があると気づいてしまいかけた。
そのとき、彼の感情因子は――わずかに反応した。
空間構造がゆらぎ、未来線が数パーセント“崩れた”。
管理者は冷静に言っていた。
「この人物は、“守られている”と知ることで、
逆に“守られていない自分”を強く想起してしまう不安定因子を持つ」と。
だから、千景は今日まで、
たった一度も「守っている」と言わなかった。
どれだけ彼が崩れかけても――
すべての支えを、影に隠してきた。
――あと1回。
彼が“何も知らないまま”、
それでも“安心して”前を向いてくれる、たったひとつの一日。
それが、明日。
「……今日の彼は、どうでしたか?」
管理者の問いに、千景はふっと微笑んだ。
その笑みは、どこか涙のように震えていた。
「穏やかでした。……ずっと、ああやって笑っていてほしいと思いました。」
「本来、観測者は“感情干渉”をしてはなりません。
ですが……」
管理者の言葉が、ふと止まる。
「あなたの選択が、いまの彼の未来を形作っています。」
「ええ。わかっています。」
千景は、画面の蓮に向かって、そっと指先を伸ばした。
そこに触れたって、何も伝わらない。
触れることすら、本当はできない。
それでも、彼の笑顔が、ただそこにあってくれるだけで――
胸が締めつけられるようだった。
(――蓮くん。明日が、最後です。
あなたはきっと知らないまま、
“さよなら”を言わずに進んでいく。
それでいい。あなたが生きていてくれるなら、それだけで――)
彼の明日を守るための、たったひとつのラストチャンス。
千景はもう、覚悟を決めていた。
「37回目の傷跡」
記録には残されていない。
だが、千景の中にだけ――深く、焼きついていた。
37回目のループ。
その世界線は、彼女が最も長く“戻るのをためらった”日だった。
朝倉蓮はその日、少し元気がなかった。
季節は梅雨の終わり。
湿った風が肌にまとわりつき、空気が重く感じられる日だった。
教室の片隅。
蓮はスマホを見つめたまま、動かなかった。
話しかけても、「うん」か「そうだね」としか返ってこない。
明らかに、何かを抱え込んでいた。
彼は誰にも言わない。
けれど千景には、わかっていた。
あの週、蓮の実父が再婚したというニュースが、SNS上で拡散された。
父親は地元では有名な建築士であり、地方紙の小さな記事にも取り上げられていた。
記事には、「再婚相手との新たな家族構成」についても触れられていた。
そこに――「蓮」の名前はなかった。
家族から「完全に切り離された存在」として、自分が置き去りにされた事実。
それが、彼の心を静かに、しかし確実に蝕んでいた。
千景は、彼の心を守るために、いつも通り接することを選んだ。
何も知らないふりで、話しかけ、寄り添い、笑ってみせた。
けれど、彼は気づいていた。
“高梨さんって、本当に僕のこと、見てくれてるんですか?”
その目が、うっすらと訴えていた。
――そして、あの日の夕方。
図書館の裏手、小さな中庭で、ふたりは並んでベンチに座っていた。
蓮が突然、ぽつりと呟いた。
「もし……高梨さんが、もう僕と話さなくなっても、
僕、たぶん……平気な顔してると思います。」
そのときの声は、どこか空っぽで。
まるで「試すように」、その言葉は発せられた。
千景は返す言葉に迷った。
心の奥では、彼の不安に気づいていた。
けれど、それに真っ向から向き合えば――
感情が高ぶり、未来因子が動き出す恐れがあった。
だから、彼女はこう答えてしまった。
「……きっと、朝倉さんなら、ひとりでも大丈夫です。」
その一言が、すべてを変えた。
その瞬間、蓮の表情が凍りついた。
彼は、誰よりも優しい。
でもその優しさは、“誰にも迷惑をかけたくない”という恐れの裏返しだった。
「頼っていい」と言われない限り、自分からは踏み込めない。
そして「大丈夫」と言われることで、
自分はまた――“要らない存在だ”と、無意識に判断してしまう。
その夜、蓮の“未来因子”が不安定化した。
――部屋の中の空間座標が微かに歪み、
観測装置の数値が急上昇した。
“世界”が、一歩だけ崩れかけた。
管理者の指示で、千景は緊急停止を実行。
そのループは“終了不可”と判断され、強制的に記憶ごと巻き戻された。
あのとき彼女が言った、たった一言。
それが、彼にとっては“拒絶”としか映らなかった。
――ああ、また僕は、ひとりになるんだ。
その心の叫びが、未来を壊した。
その夜、千景は部屋の隅で一人、声を殺して泣いた。
言葉を選び間違えた自分を、何度も責めた。
そして、誓ったのだ。
二度と、彼に“見捨てられる”という感覚を与えない。
どんなときも、「大丈夫」ではなく「一緒にいる」という姿勢で接する。
彼が“必要とされている”と心から信じられるように、
そのすべてを支えてみせると。
以来、千景は言葉の一つ一つを選び続けた。
表情、声のトーン、歩く速ささえも。
彼の“安心”を壊さないように。
――けれど、あと1回。
100回目のループでは、それすらもう通用しない。
彼女は知っていた。
「最終日」は、“別れの日”なのだ。
それが「別れ」だと、彼に気づかれずに済ませなければならない。
一度でも彼が不安を感じたら――未来は、また崩れる。
だから彼女は、
最後の日を、
彼の人生でいちばん“穏やかで、安心できる日”にすると決めていた。
そして、その決意がどれほど苦しいものかを、
千景だけが、知っていた。
朝の陽射しが、いつもよりやわらかく差し込んでいた。
空はどこまでも高く澄んでいて、風は心地よく頬を撫でていく。
朝倉蓮は、目を覚ました瞬間に、
ふと、胸の奥に淡い違和感のようなものを覚えた。
寝覚めは良かった。天気もいい。
けれど、なにか――ほんのわずかに、
「今日という日が、特別になる気がした」。
根拠のない、直感だった。
でも、彼にはそういう勘が、よく働いた。
それでも、その“違和感”はすぐに霧散する。
スマホを手に取り、カレンダーを確認して、軽く伸びをする。
ごく普通の、いつもの日だ。
着替えて、キャンパスに向かう。
春の陽気はすでに初夏の気配を帯びていて、制服のように着慣れたシャツの袖をまくり上げると、肌に風が気持ちよかった。
大学に着いてすぐ、ふと見ると、彼女がいた。
高梨千景。
図書館前の階段に、やわらかく座っていた。
小さな紙袋を膝の上に抱えている。
「……あれ、高梨さん?」
声をかけると、彼女は少し驚いたように顔を上げ、
そして、穏やかな笑みを浮かべた。
「おはようございます、朝倉さん。」
「こんな時間から……?」
「少しだけ、早起きしたくなって。」
「へぇ……珍しいですね。何かあるんですか?」
千景は、ほんの一瞬だけ視線を逸らして、
それから紙袋を差し出した。
「よかったら、これ。一緒にどうですか?」
中には、手作りのクッキーと、小さなジャスミンティーのパック。
蓮は目を丸くした。
「えっ……すごい。ありがとうございます。」
「朝倉さん、甘いものあまり食べないって言ってたけど……少しだけなら。」
「覚えてたんですか……そんな細かいこと。」
「はい。……ちゃんと。」
その言葉が、やけに胸に残った。
ふたりは並んで階段に腰を下ろす。
蓮はティーパックに水を注ぎながら、ふと思う。
「こうやって話すの、たしかにもう……何度目ですかね。」
「そうですね。たぶん……ちょうど、100回目くらい。」
「え?」
「……冗談です。」
千景はそう言って笑った。
でも、その笑顔の奥に、何かが見えた気がした。
蓮は何かを言いかけて、やめた。
言葉にできない何かが、胸の中で足踏みしている。
でもそれを口に出してしまえば、何か壊れてしまいそうで。
千景がそっと、言った。
「朝倉さんは、本当に、変わりましたよね。」
「……そうですか?」
「はい。最初の頃よりも、ずっと、自然に笑えるようになって。」
蓮は静かにうなずいた。
それは、事実だった。
ここ数ヶ月、自分でも感じていた。
誰かと笑い合えること。
誰かに、自分の話をしてもいいと思えること。
――その「誰か」が、いつだって目の前にいた。
蓮は、ふと千景の手を見た。
指先を、無意識に押し合わせている仕草。
「……それ、またしてますね。」
「え?」
「指先、合わせるやつ。なんか、落ち着くって言ってましたよね。」
「ああ……はい。癖みたいなものです。」
蓮は、そっと自分の指を見下ろした。
そういえば、最近、自分も時々やってしまう。
指を、重ねてみる。約束の仕草。
子どもの頃に覚えた、ささやかな安心のかたち。
「今日、なんか……変な日ですね。」
「変……ですか?」
「うん。いい意味で。全部が、すごくうまくいく気がする。」
千景は、何も言わなかった。
けれど、その横顔が、風に吹かれてわずかに揺れた。
「……朝倉さん。」
「はい?」
「今日という日を、ありがとう。ほんとうに。」
蓮は笑った。
「いやいや、むしろ僕のほうが感謝したいくらいです。」
「でも、私のほうが多分、感謝してます。」
千景は、最後まで“強がり”を崩さなかった。
笑っていた。でも、その手は、少しだけ震えていた。
蓮は気づかなかった。
その笑顔の奥に――
“これが最後だ”という、千景の決意が宿っていたことを。
風が吹き抜ける。
紙袋が軽く揺れて、ジャスミンの香りがかすかに広がる。
それは、永遠に続きそうな午後の始まりだった。
でも、彼女にとっては、最後の午後だった。
彼にとっては――
ただ、“また会える”と信じていた一日。
「また、きっと」
桜が、もうほとんど散っていた。
あたたかい風が、花びらの名残を巻き上げながら、中庭をゆっくりと通り抜けていく。
高梨千景は、ベンチに腰を下ろし、スカートの裾をそっと押さえて風の音に耳を澄ませていた。
その横に、朝倉蓮が自然に座った。
何の合図も、言葉もいらなかった。
それがふたりにとっては、いつものことだったから。
「春、終わりそうですね。」
「うん。ちょっとさみしいね。」
「はい。でも……また来年、咲きます。」
蓮はその言葉に、少しだけ顔を向けた。
千景は、変わらない笑顔を浮かべていた。
けれど――
その笑顔は、どこか張り詰めて見えた。
ほんの、ほんのわずかに。
(……ごめんね、蓮くん。
本当は、私はもう“来年”を迎えられない。)
そう思いながらも、千景は微笑んだ。
それが、蓮の中に“不安”を芽生えさせないための、たった一つの術だった。
「今日って、なんか……落ち着いてますよね。」
蓮がそう言うと、千景は少し笑って頷いた。
「ええ。空気が澄んでる気がします。……最後の春みたいに。」
「え?」
「ふふ、冗談です。」
いつものように笑って、流す。
けれど、その言葉は千景自身の胸に、針のように刺さっていた。
(言ってしまいそうになる。
あと少しで、“これが最後だ”って言ってしまいそうになる。
でも、それを言った瞬間に、あなたの未来は崩れてしまう。)
千景は、自分の心を押し殺して、ただ明るく振る舞い続けた。
それが、彼を守るための、最後の戦いだった。
そのとき、蓮がふいに、ポケットから小さなメモ帳を取り出した。
「そういえば、この前の課題で、ちょっとだけ詩を書いたんですよ。
変な出来だけど、誰にも見せてなくて。」
「えっ、詩? 朝倉さんが?」
「うん。意外ですか?」
「意外です。でも、ちょっと見てみたいです。」
「いや、見せない。恥ずかしいし。……でも、いつか、どこかで読んでくれる人がいればいいなって、ちょっと思ったんです。」
その言葉を聞いた瞬間、
千景の胸が、きゅっと締めつけられた。
(――そうだ。きっと、“いつか”のあなたに届いてほしい。)
「じゃあ……約束、しませんか?」
「約束?」
「今度また、こういう春の日に、私があなたに言葉を贈るって。
それを、あなたがちゃんと見つけてくれるって。
……それだけで、いい。」
蓮は少し首を傾げたが、笑ってうなずいた。
「……いいですよ。変な約束だけど、嫌いじゃないです。」
「ありがとう。」
千景はそっと指を差し出した。
「指切り……します?」
「またそれですか。」
「うふふ。好きなんです、こういうの。」
蓮も笑って、指を絡めた。
小指と小指が、そっと結ばれる。
ふたりだけの、小さな約束。
千景の瞳の奥に、ほんの少しだけ光るものが浮かんでいた。
でも蓮は、それに気づかなかった。
(お願い、どうか――あなたがその言葉を見つける世界が、
やさしいものでありますように。
たとえ私の名前も顔も、すべて忘れてしまっていても、
その言葉だけは、どこかで届きますように。)
その願いを胸に、千景はそっと視線を空へ向けた。
誰にもわからない涙が、頬を伝うことはなかった。
けれど心は、静かに泣いていた。
それでも彼女は、
最後の最後まで、笑っていた。
その笑顔が、蓮の記憶には残らなくても、
“安心”という形で、彼の中に灯り続けることを信じて。
「さよならを言えない朝に」
朝、蓮はゆっくりと目を覚ました。
いつもの天井、いつもの光、いつもの呼吸。
何ひとつ変わらないはずなのに――
胸の奥に、何かぽっかりとした空白があった。
「……なんだろ。」
声に出しても、その理由がわからなかった。
まるで、大切な何かをなくしたような。
いや、最初からなかったものを、間違えて大事にしていたような、そんな奇妙な感覚。
カレンダーには特に予定もない。
春の空は今日も明るく、風はやわらかかった。
何もないはずの朝。
それなのに、なぜか、何かが終わってしまったような気がする。
***
その頃。
キャンパスの片隅、人のこない資料館の裏庭に、ひとりの少女が静かに立っていた。
高梨千景。
――時間軸からの最終離脱30分前。
制服姿のまま、彼女は手元のノートにそっとペンを走らせていた。
そこには、たった一言だけ。
「また、春に会おうね。」
それは、彼に向けた最後の贈り物。
彼が思い出さなくてもいい。
名前を忘れてもいい。
でも、いつかどこかでこの言葉に出会ったとき――“なぜだかわからない涙”がこぼれるように。
それが、千景の祈りだった。
ノートを閉じ、ベンチの下に差し込む。
それは、ごく自然に風に吹かれて落ちたように見える場所。
誰かが拾うかもしれないし、拾わないかもしれない。
それでも、そこに**“思い出の種”を残すこと**が、彼女にとっての最終任務だった。
彼女は、最後に一度だけ、空を見上げた。
何度この景色を見ただろう。
何度、彼の声を聞いただろう。
何度、指切りを交わしただろう。
そのすべてを、彼は忘れてしまう。
それが“ルール”だった。
でも――彼の中に、「誰かに守られていた温かさ」だけは、絶対に残ると信じていた。
「蓮くん。ごめんね。ほんとうは、もっと一緒にいたかった。」
「ずっと傍にいて、あなたの未来を見届けたかった。」
「でも、私はもう行かなくちゃいけないの。」
「だから――ありがとう。最後まで、笑っていてくれて。」
彼女は、言葉に出さなかった想いを、すべて胸の中で呟いた。
目尻が濡れる。
でも、誰もいない場所だから、もう隠さなくていい。
最後の涙は、
彼の前ではなく、
誰にも見せない場所で流すと決めていた。
***
正午ちょうど。
世界の境界が、すこしだけきしんだ。
誰もそれに気づかない。
それは音も光もない、存在の消去だった。
その瞬間から、千景という人物は、
この世界のどこにも「いなかったこと」になった。
学生名簿からも、ゼミの写真からも、出席簿からも、講義の記録からも。
そして、何より――
蓮の記憶からも。
名前も、顔も、声も、すべてが霧のように消えていった。
***
午後、蓮は中庭を歩いていた。
風がやさしく吹いている。
でも、何かが“足りない”ような気がする。
目の端に、なにか引っかかるように視線が動いた。
ベンチの下、紙切れのようなものが見える。
蓮はしゃがみ込み、それを拾った。
古びた文庫本の裏に、誰かの文字で、たった一行だけが書かれていた。
「また、春に会おうね。」
その言葉を見た瞬間、
心臓の奥が、ぎゅっと絞られるように苦しくなった。
「……え?」
誰が書いたのか、わからない。
でも、なぜだろう。
この言葉を見た瞬間、
涙が、あふれそうになった。
蓮は、そっとそれを胸ポケットにしまった。
理由なんて、いらなかった。
ただ、なぜだか――
「……また、春に。」
声に出したその言葉が、
彼の胸の奥で、静かに灯りをともした。
記憶はない。
でも、確かに誰かと、何かを約束していた気がする。
それだけが、彼の心に、最後に残された。
春は、少しずつ満ちていた。
朝倉蓮は、変わらぬ日々の中にいた。
駅までの道、通い慣れた編集部、
コーヒーを片手に校正に向かう午後――
忙しさに追われながらも、彼の暮らしはどこか整っていた。
けれど、時折、理由もなく立ち止まってしまう瞬間があった。
街路樹がそよぐ風の音。
踏切の警報が鳴り響く夕暮れ。
ホームのベンチに座る背中の温度。
そのどれもが、「誰かと共有していたような気がする」
――けれど、思い出せない。
蓮は、それが何なのか、知ることはできなかった。
***
ある日。
会社帰りにふと足を向けた古書店で、
彼は無意識のうちに、一冊の詩集を手に取っていた。
タイトルも、著者名も、読んだ記憶もない。
でも、なぜか、表紙を見たときに**“指先が自然に動いた”**のだった。
レジへ運びながら、自分でも首をかしげた。
(……なぜ、これを手に取ったんだろう。)
答えはない。
でも、なにか――胸の奥にひとすじの線が引かれたような気がした。
***
その夜、部屋でページをめくる。
詩のひとつひとつに、どこか既視感のようなものがあった。
けれど、それは「読んだことがある」という感覚ではなく――
“誰かが、これを読んでいてほしかった気がする”、という
説明のつかない感情だった。
最後のページに、小さな付箋が貼られていた。
もともとの読者が残したのか、それとも偶然か。
そこには、ただ一行。
「春は、きっとまた来るよ。」
蓮はその言葉を、何度も目でなぞった。
思い出せない。
でも、なぜか――涙が滲んだ。
喉の奥が詰まり、胸がきゅっと絞られる。
心が、過去から届いた何かに、静かに触れているようだった。
彼はそっと本を閉じた。
それ以上読むことはできなかった。
***
それから数日。
蓮は、日常の中でふと気づいたことがあった。
街の中で、春の風を感じたとき。
誰かとすれ違ったとき。
自動販売機の前で立ち止まったとき。
なぜか、自分の小指が――無意識に、もう一方の小指を探している。
子どもの頃の癖?
それとも、ただの気のせい?
でも、その瞬間だけ、
胸の中に、やさしくて温かいものが広がる気がした。
誰かと、何かを約束したような気がして。
その約束が、今も生きているような気がして。
***
春は、巡る。
思い出せなくても、感情だけが、確かにそこにある。
それは記憶じゃない。
形には残らない。
でも、誰かが自分のために笑っていてくれた記憶。
言葉にならないやさしさが、
蓮の中に、いつまでも静かに灯り続けていた。
そして――
その“灯り”を、遠い空の彼方から、
そっと見守る存在があることを、蓮は知らない。
彼女はもう、どこにもいない。
名前もない。記録もない。声も届かない。
でも、蓮が春の中でふと立ち止まるその瞬間ごとに――
彼女の想いは、たしかに、
この世界に残っている。
朝倉蓮は、その日、
仕事で取材に訪れた小さな町で、何気なく寄り道をした。
住宅街の外れ、古い公園。
遊具のペンキは少し剥がれていて、ベンチの木目もところどころ風化していた。
でも、どこか――懐かしい気がした。
初めて来たはずの場所なのに、
この風の匂いも、陽の射し方も、どこか“知っている”と感じさせた。
ふと、公園の片隅に、無人の小さな展示ブースのようなスペースが目に入った。
詩や俳句を展示する町の企画のようだった。
手書きの紙が何枚もガラス越しに貼られていて、そのひとつに自然と目がとまる。
「また、春に会おうね」
その瞬間、風が吹いた。
まるで、彼の頬をそっと撫でるように。
蓮は足を止めた。
心が、ぎゅっと絞られる。
どこかで見た気がする。
どこで? 誰と?
何を、交わした?
……思い出せない。
けれど、なぜか涙が出そうになった。
その言葉の前で立ち尽くしていると、
隣に、小さな女の子がやってきた。
手にはラベンダー色の風車を持っている。
「お兄さん、それ、すき?」
女の子が、無邪気に聞いてきた。
蓮は戸惑いながらも、うなずく。
「……うん。なんか、いい言葉だと思う。」
「それ、わたしのおばあちゃんが、むかし書いたやつなんだって。」
「……そうなんだ。」
「でもね、おばあちゃん、もうどこにもいないの。
でも、うちの人たちはね、『あの人は“風”になった』って言うの。」
女の子はそう言って、くるくると風車を回した。
風がまた吹いた。
ラベンダーの香りが、ふわりと漂った気がした。
蓮は、女の子に礼を言い、ベンチにそっと腰を下ろす。
見上げた空は、
何も語らないくせに、
やけに優しくて――
気づけば、彼の小指が、
もう一方の小指にそっと触れていた。
指切り。
それが、なにか意味を持っていたことなど、もう覚えていない。
けれど、その仕草がなぜか、とても安心することだけは知っている。
風がまた吹いた。
ふと、胸ポケットに手を入れると、
以前拾った、あの古い詩集が入っていた。
なぜか、今日はそれを持ち歩いていた。
何度目かもわからないくらい読んだラストページ。
「また、春に会おうね」
読んでいると、涙が一粒だけ、こぼれた。
その意味はわからない。
でも、きっとそれでいいのだと思った。
***
どこにもいない。
けれど、どこかに、いる。
千景はもう、この世界に存在していない。
名前も、記憶も、誰の中にも残っていない。
それでも――
彼女の願いだけが、ちゃんと届いていた。
「また、春に会おうね。」
そう言った彼女の最後の願いは、
彼の未来の中で、
“静かに果たされた”。
音もなく。
涙のように。
やさしい風のように。
そしてまた、新しい春が始まる。
【完】
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